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人でなくなってから ずっと ずっと 後になってから
私は仮面の男に訊いてみた
にぃ、と 夜空が口を歪めて笑っていた。
赤みを帯びた三日月がその光を大地に向けて、怪しげな光で照らす中で、仮面の男は墓場に生えた枯れ木の上で笑う。
片方だけ見える赤い瞳が歪んでいるのは、侮蔑からなのか、ただ可笑しいからなのか、私にはわからない。
「あの日々」は 偽りだったのか? 真実だったのか? と問う私に、仮面の男は答えた。
お前にとって、偽りだったかどうかは、お前が決めることだ
しかし、「奴」とお前、「二人」にとって、真実だったか否かは、
その答えを求めない限り、絶対に解答を得ることはない
答えを求めず、助けを求めることもできず、縋ることもできず、憎むこともできず、
かといって私と二人きりで生きることをも拒絶するというのなら、
お前の未来には絶望的な孤独しかない
私はいつも言っているだろう
例え我々の立つ舞台が虚構であろうとも、観客がどれほど残酷であろうとも、
私とお前二人が固い契りの上で演じ、舞い続けるのであれば、
「我々」という役者の前に敵はどこにもいはしないのだと
「狂い、舞い踊ろう」私はいつも、そう言っているのに、
お前は、私ですらも拒絶する
お前が求めているものは、何だ?
仮面の男は笑う。
私の頬には涙が伝う。
二人の間にある感情は同じ
それでも
仮面の 男は 笑う
私の 心は 血を流す
仮面の男は言うのだ。
私だけは 絶対に お前を 裏切らない
それは、甘く、苦しい言葉。
「奴」の裏切りへの憎しみを糧として 悲しみもまた糧として、
仮面の男を受け入れられたなら きっと楽になることができたのだろう。それは孤独のぎりぎり一歩手前の生。だが、それは孤独そのものではない。
例え、仮面の男と私しかいない世界であっても、それで私が満たされるのであれば、孤独そのものではないのだ。
仮面の男は繰り返す。
「奴」に答えを求めず、助けを求めることもできず、
縋ることもできず、憎むこともできず、
かといって私と二人きりで生きることをも拒絶するというなら、
お前の未来には絶望的な孤独しかない
それでも私は、最後まで、望みを捨て去ることができなかったのだ。
だから、選べなかった、選ばなかったのだ。
私は 選べなかった、選ばなかった。
プライドも何もかも捨て去って 「奴」-ソロモンにすがる事も
思い出を捨て去ることもできなかったのだ。
哀れな奴だ
生きながらにして 未来を永遠に停止するのか
そんな生には 苦痛しかないだろうに
それでも、私は選ばなかった。
儚い希望を捨て去ることができずに、前に進むこともできず。
停滞という苦痛の中で 生きることしかできなかったのだ。
ただ、あるがままに受け入れられる安堵感を、また得られるという絶望に一番近い希望を信じて。
朝が来なければいいと思ったあの夜に、戻れると、信じて。
<地獄への組曲 16>
「僕は、あなたのものですから」
言われた次の瞬間には、長いキスが始まっていた。舌を絡ませあいながら、激しく吸う。背中に回されたソロモンの手は、私が逃げるのを許さないとばかりに力を込めてくる。
愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい。
ソロモンに愛していると言われながら、言葉を返すことのできない私は、ただ心の中で呪文のようにその言葉を繰り返しながら、何度も角度を変えて口づけを味わった。
言葉を尽くして、想いを告げてくれたことが本当に嬉しくて、それゆえに、素直になれない自分が口惜しい。
伝えたい言葉は、いくらでもあるのだ。
どれだけ感謝しているか。
カール、と名を呼ばれてどれだけ嬉しかったか。
出会えてよかったと、どんなに思っているか。
いつか、はっきりと言葉にできる時がくるだろうか?
熱を重ねる前の前奏のように、口付けを深くしていくソロモンから、体が熱くなるのを感じながらも、私は無理やり体を離した。
恨みがましい顔をしながらソロモンが口を開く前に、
「待て…、ベッドがあるのに、ここで始めるのか?」
私は素早く言った。
「言われてみれば…、そうですね」
奴は苦笑しながら、先にベッドの上にころがる。
「さぁ、カール」
手招きするソロモンの傍らで横になれば、すぐにソロモンに抱きしめられる。
「………」
奴は何もしてこない。
「ソロモン?」
名を呼ぶが、ソロモンは答えなかった。代わりに聞こえたのは、奴の手がバスローブを撫でるかすかな音だけ。
そうやって、巨大ベッドの真ん中で何をするわけでもなく、私達はバスローブを着たまま抱き合う。奴は飽きもせずに何度も何度も私の髪を梳く。何かしてくるのかと思えば、バスローブ超しに背を撫でるくらいだ。
こちらが身を動かせば、ほんの少しでも互いの体の間に隙間が空くのすら耐えられないとばかりに、ソロモンは体を摺り寄せて、密着させてくる。
ただ、抱き合う。
身構えていた私は、奴の腕の中で瞳を閉じ、体から力を抜いた。
安心する。ただ静かに奴の穏やかな熱を受け取り、奴の呼吸をするたびの体の動きも、鼓動も全てを感じながら抱きしめられて。
思わず私は、ソロモンに気づかれないように苦笑した。
今の私はおかしい。
いつもなら、奴といて幸せだと思うたびに、どこか悔しい思いをするのだ。
だが今は、抱きしめられながら眠る夜がどれほど幸せなのか、…そればかりを考えている。
もし、今、私にプライドだとか羞恥心だとか、そんなものがなかったら、私は奴になんと告げるのだろう。
はっきり言って奴が憎たらしい時もあるし、窓から放り出してやりたい時がないわけではない。
…それでも、いや、そういうところを含めた全てが愛しい。
いや、この言葉も違う。
満たされている。
その言葉が、今の自分の気持ちに、一番近いかもしれない。
それは、あるがままに受け入れられる安堵感。
この感覚を覚えていられるのなら、これからのことも耐えられる…そう。思った。
遠い異国の地に一人赴く不安も、その先にある困難にも。(行けないかもしれない。だが、その結果も受け入れられるだろう)
この感覚さえ覚えていられるのならば、自分の求めるものに向かって真っ直ぐに進んでいける。
たった一人でしていた覚悟よりも、より強い力を奴はくれるから。
奴という存在がこの世界いると思う、それだけで、もっと、今までよりも自分を信じられる。
……知らず知らずにのうちに、私は、奴に支えてもらっている。
私は、奴に何回「ありがとう」を言えばいい?
与えられてばかりの私は、奴に何を返せばいい?
貰ってばかりいるのがどうしても癪であるし、それに…、
認めるのもまた癪だが、やはり奴の喜んだ顔が見たい。
だが、私が奴にやれるものなど、やはり何もなくて。
だから今は、自分の道を精一杯に進んで行くことしか私にはできない。
それでも、いつか、奴から与えられるばかりではない人間になりたい。
今はまだ、想いを口にすることはできない。
邪魔をしている感情が多すぎる。
来るだろうか、自分の本当の想いを口にできる日が。
来るだろうか、与えられるばかりではない自分になれる日が。
その日が、そう遠くない未来であることを、願っている。
否、願うだけではいけないことは、知っている。
掴み取りたい未来が見えているならば、それに向かって進まなければならない。願うだけでは、祈るだけでは、何も手に入らない。
進む力は、奴がくれた。
先へ、進もう。私にはそれしか出来ないのだから。
ふと気配を感じて、私は目を開いた。ソロモンの肩の向こうに、仮面の男が佇んでいた。ゆっくりと男は仮面を外す。
燕尾服を着た『私』は私を慈しむように微笑むと、周囲に溶け込んでやがて消えた。
よかったな
その一言だけを残して。
仮面の男は以前、言っていた。「私たちは分かれてはいけないのだ」と。分かれていることは気持ちいいけれど、それは他の誰かを拒絶することに繋がっていくから。
『私』達は、求め合うのではなく、拒絶しあうのでもなく、静かに一つであればいい。独りなのではなく、ひとつなのだということを忘れさえしなければいい。
もう、彼に会うことはないだろうと思った。
あるがままに、私を受け入れくれる存在のある限り。
もう一人の『私』は、二度と私の前に姿を現さないだろう。
そして残念ながら、私は、私を受け入れてくれる存在を逃がしてやる気はないのだ。
『責任はとってもらうぞ……ここまで私をお前で染めたんだ』
『…はい。ちゃんと責任とります。……約束、します』
あの「約束」はしっかり、守ってもらうつもりだ。
* * *
ただ抱き合っていただけの静寂を破って、小さな戯れがいつ始まったのかはわからない。
互いの肌を性急に探りあう中で、くすぐったいという感覚が、気持ちいいという感覚に変わるまでにそう長い時間はかからなかった。
ソロモン以外の誰にも触れられたことない場所を突き上げられながら、奴の言葉を聴く。
いいんですよ、声を抑えなくても
隣の部屋には誰も泊まらないように手配してありますから
…あなたの可愛い声を、他の誰かに聞かせたくなんてありませんから
この身体のどこにも、ソロモンが触れていない場所など無い。
奴に敏感にさせられた身体は、耳元に響く低く掠れた声にさえもびくりと反応してしまう。
何度も、何度も、奴の名前を呼んだ。
ソロモン、ソロモン、ソロモン、ソロモン………。
何度も、何度も、名前を呼ばれた。
カール、カール、カール、カール………。
思考を飛ばして本能のままに求め合う中で、その声だけは、確かに聞こえていた。
熱くて、苦しくて、痛くて…、けれども、触れあう場所から感じる全ての感覚に、体中が悦びの声をあげていた。
* * *
幾度も激しい熱を分け合った後、二人で静かに横になっていた。
ソロモンの瞳に私が写る。私の瞳は奴でいっぱいになっている。
互いの間にある無限回廊の中。ここに囚われるなら、それもいいのかもしれない。
…朝など、こなくても、いい。
「…眠らないんですか」
ソロモンが唐突に口を開いた。
「お前が眠るのを待っているんだ」
「…何故?」
「お前の寝顔を見たことがない。今日こそ見てやる」
「…見て楽しいものでもないですよ」
「それでもだ」
「…そんなに見つめられたら、眠れませんよ」
そう言って、困ったように笑うソロモンを見ながら、絶対にこいつの寝顔を見てやると決心したのだが、心地よい疲労感とソロモンの腕の温かさの中ではどうしても睡魔に抗えず、ソロモンの寝顔を見ることはできなかった。
* * *
朝日が入る部屋の中で、目を覚ます。一瞬、ここはどこなのだろう、と思ってから、ああ、ホテルに泊まりにきていたのだと納得する。
横にソロモンがいないことに気づいて、私が身体を起き上がらせると、窓際に佇んでいたソロモンは微笑みながら振り返った。
「お……」
おはよう、と言う前に唇を塞がれた。
どこか名残惜しい気がしながらもシャワーを浴びた後、朝食をとる。
それから部屋で軽くじゃれあってから、ホテルをチェックアウトした。
目を覚ました時は眩い朝日が部屋を満たしていたというのに、奴の車に送られる途中、大雨が振り出した。
「まるで誰かさんのようですね。晴れていると思ったら、こんなに……」
続けようとしたソロモンに、うるさいそれはお前だろう、と返し、私は窓の外を眺めた。
凄まじい雨だ。
「…ソロモン」
「はい?」
私は窓の外を見たまま言った。
「もし、この後用事がないのなら、部屋に来てくれないか…。もう少しだけ、傍にいたい」
自分でも驚くぐらいスムーズにこの言葉がでてきた。
「すみません、…このあと、用事があるので」
「…そうか」
仕方ない。
別に今生の別れというわけではないのだから、「それでも来い」とは言えない。
* * *
アパートの前に着いた時、まだ雨は全力で道に向かって自らを叩きつけていた。
私はソロモンの表情をうかがった。
ソロモンはこちらを、いつもと変わらない微笑で見ていた。
別れがたいとは思うが、いつまでも車をここに停めておくわけにもいかない。
「礼を、言う」
「倍返しを楽しみにしていますよ」
ぎこちなく私が言うと、やはりいつもと同じ穏やかな微笑をたたえながら、ソロモンは答えた。
私は車からでると、小走りでアパートの玄関口へ向かう。
雨に濡れない場所に着いてから、まだ停まっている車の方を振り返って手を振った。
ソロモンは片手を軽くあげると、車をだした。
しかし、大雨が降るのは珍しくはないが、こんなに降るとは。そんなことを思いながら、アパートの中に入ろうとすると、車が急停車する音がした。私は思わず足を止めて音のした方向を見る。
なんの配慮もない勢いで、車のドアが音を立てて開く。
ソロモンはドアを閉めもせずに、こちらへ向かって全速力で走ってきた。
奴の足が道に着地する度に、ざばぁ…ん、と音をたてて、水が四方に跳ねる。
奴が走ってくるのがスローモーションのように見える。突然の出来事に、私の脳がこちらに走ってくる奴を認識するより先に、スピードを全く緩めずに奴は私に飛びついてきた。
走ってきたのはほんの短い距離だと言うのに、やつの服はびしょ濡れになっていた。私の服も濡れる。
「カール……」
その声に、私はここが屋外だとか、人が見ているだとかそんなことを言うこともできずに、その場で固まった。
「ソロモン…?」
返事はない。
私を抱きしめる奴の腕の力に、体のどこかが軋むような音が聞こえた気がした。
「離れがたくて…ね…」
そう言って、ソロモンは私から体を離す。
顔中に水がしたたっていた。
「少し、寄っていくか?」
用事があると言っていたのは覚えていたが、訊く。
「いえ、いいんです。…すぐ、帰ります」
その言葉とは逆に、ソロモンはしばらく俯いたまま動かなかった。
どうした、と訊く前に、
「すみません、昨日あれだけ傍にいたから、離れられなくなっているみたいです。…でも大丈夫です。どうもお騒がせしました」
ソロモンはにっこりと微笑んで言った。ああ、いつものソロモンだ。
「帰ります」
ソロモンは踵を返した。
「またな」
「………」
私が言うと、ソロモンは立ち止まってから、
「ええ……また」
振り返らずに、言った。
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私は仮面の男に訊いてみた
にぃ、と 夜空が口を歪めて笑っていた。
赤みを帯びた三日月がその光を大地に向けて、怪しげな光で照らす中で、仮面の男は墓場に生えた枯れ木の上で笑う。
片方だけ見える赤い瞳が歪んでいるのは、侮蔑からなのか、ただ可笑しいからなのか、私にはわからない。
「あの日々」は 偽りだったのか? 真実だったのか? と問う私に、仮面の男は答えた。
お前にとって、偽りだったかどうかは、お前が決めることだ
しかし、「奴」とお前、「二人」にとって、真実だったか否かは、
その答えを求めない限り、絶対に解答を得ることはない
答えを求めず、助けを求めることもできず、縋ることもできず、憎むこともできず、
かといって私と二人きりで生きることをも拒絶するというのなら、
お前の未来には絶望的な孤独しかない
私はいつも言っているだろう
例え我々の立つ舞台が虚構であろうとも、観客がどれほど残酷であろうとも、
私とお前二人が固い契りの上で演じ、舞い続けるのであれば、
「我々」という役者の前に敵はどこにもいはしないのだと
「狂い、舞い踊ろう」私はいつも、そう言っているのに、
お前は、私ですらも拒絶する
お前が求めているものは、何だ?
仮面の男は笑う。
私の頬には涙が伝う。
二人の間にある感情は同じ
それでも
仮面の 男は 笑う
私の 心は 血を流す
仮面の男は言うのだ。
私だけは 絶対に お前を 裏切らない
それは、甘く、苦しい言葉。
「奴」の裏切りへの憎しみを糧として 悲しみもまた糧として、
仮面の男を受け入れられたなら きっと楽になることができたのだろう。それは孤独のぎりぎり一歩手前の生。だが、それは孤独そのものではない。
例え、仮面の男と私しかいない世界であっても、それで私が満たされるのであれば、孤独そのものではないのだ。
仮面の男は繰り返す。
「奴」に答えを求めず、助けを求めることもできず、
縋ることもできず、憎むこともできず、
かといって私と二人きりで生きることをも拒絶するというなら、
お前の未来には絶望的な孤独しかない
それでも私は、最後まで、望みを捨て去ることができなかったのだ。
だから、選べなかった、選ばなかったのだ。
あの日々を 取り戻すのか
それとも
思い出を捨て去って新しい生を行くのか
選ぶしかない そうでなければ
私は お前に
何もしてやれない
それとも
思い出を捨て去って新しい生を行くのか
選ぶしかない そうでなければ
私は お前に
何もしてやれない
私は 選べなかった、選ばなかった。
プライドも何もかも捨て去って 「奴」-ソロモンにすがる事も
思い出を捨て去ることもできなかったのだ。
哀れな奴だ
生きながらにして 未来を永遠に停止するのか
そんな生には 苦痛しかないだろうに
それでも、私は選ばなかった。
儚い希望を捨て去ることができずに、前に進むこともできず。
停滞という苦痛の中で 生きることしかできなかったのだ。
ただ、あるがままに受け入れられる安堵感を、また得られるという絶望に一番近い希望を信じて。
朝が来なければいいと思ったあの夜に、戻れると、信じて。
<地獄への組曲 16>
「僕は、あなたのものですから」
言われた次の瞬間には、長いキスが始まっていた。舌を絡ませあいながら、激しく吸う。背中に回されたソロモンの手は、私が逃げるのを許さないとばかりに力を込めてくる。
愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい。
ソロモンに愛していると言われながら、言葉を返すことのできない私は、ただ心の中で呪文のようにその言葉を繰り返しながら、何度も角度を変えて口づけを味わった。
言葉を尽くして、想いを告げてくれたことが本当に嬉しくて、それゆえに、素直になれない自分が口惜しい。
伝えたい言葉は、いくらでもあるのだ。
どれだけ感謝しているか。
カール、と名を呼ばれてどれだけ嬉しかったか。
出会えてよかったと、どんなに思っているか。
いつか、はっきりと言葉にできる時がくるだろうか?
熱を重ねる前の前奏のように、口付けを深くしていくソロモンから、体が熱くなるのを感じながらも、私は無理やり体を離した。
恨みがましい顔をしながらソロモンが口を開く前に、
「待て…、ベッドがあるのに、ここで始めるのか?」
私は素早く言った。
「言われてみれば…、そうですね」
奴は苦笑しながら、先にベッドの上にころがる。
「さぁ、カール」
手招きするソロモンの傍らで横になれば、すぐにソロモンに抱きしめられる。
「………」
奴は何もしてこない。
「ソロモン?」
名を呼ぶが、ソロモンは答えなかった。代わりに聞こえたのは、奴の手がバスローブを撫でるかすかな音だけ。
そうやって、巨大ベッドの真ん中で何をするわけでもなく、私達はバスローブを着たまま抱き合う。奴は飽きもせずに何度も何度も私の髪を梳く。何かしてくるのかと思えば、バスローブ超しに背を撫でるくらいだ。
こちらが身を動かせば、ほんの少しでも互いの体の間に隙間が空くのすら耐えられないとばかりに、ソロモンは体を摺り寄せて、密着させてくる。
ただ、抱き合う。
身構えていた私は、奴の腕の中で瞳を閉じ、体から力を抜いた。
安心する。ただ静かに奴の穏やかな熱を受け取り、奴の呼吸をするたびの体の動きも、鼓動も全てを感じながら抱きしめられて。
思わず私は、ソロモンに気づかれないように苦笑した。
今の私はおかしい。
いつもなら、奴といて幸せだと思うたびに、どこか悔しい思いをするのだ。
だが今は、抱きしめられながら眠る夜がどれほど幸せなのか、…そればかりを考えている。
もし、今、私にプライドだとか羞恥心だとか、そんなものがなかったら、私は奴になんと告げるのだろう。
はっきり言って奴が憎たらしい時もあるし、窓から放り出してやりたい時がないわけではない。
…それでも、いや、そういうところを含めた全てが愛しい。
いや、この言葉も違う。
満たされている。
その言葉が、今の自分の気持ちに、一番近いかもしれない。
それは、あるがままに受け入れられる安堵感。
この感覚を覚えていられるのなら、これからのことも耐えられる…そう。思った。
遠い異国の地に一人赴く不安も、その先にある困難にも。(行けないかもしれない。だが、その結果も受け入れられるだろう)
この感覚さえ覚えていられるのならば、自分の求めるものに向かって真っ直ぐに進んでいける。
たった一人でしていた覚悟よりも、より強い力を奴はくれるから。
奴という存在がこの世界いると思う、それだけで、もっと、今までよりも自分を信じられる。
……知らず知らずにのうちに、私は、奴に支えてもらっている。
私は、奴に何回「ありがとう」を言えばいい?
与えられてばかりの私は、奴に何を返せばいい?
貰ってばかりいるのがどうしても癪であるし、それに…、
認めるのもまた癪だが、やはり奴の喜んだ顔が見たい。
だが、私が奴にやれるものなど、やはり何もなくて。
だから今は、自分の道を精一杯に進んで行くことしか私にはできない。
それでも、いつか、奴から与えられるばかりではない人間になりたい。
今はまだ、想いを口にすることはできない。
邪魔をしている感情が多すぎる。
来るだろうか、自分の本当の想いを口にできる日が。
来るだろうか、与えられるばかりではない自分になれる日が。
その日が、そう遠くない未来であることを、願っている。
否、願うだけではいけないことは、知っている。
掴み取りたい未来が見えているならば、それに向かって進まなければならない。願うだけでは、祈るだけでは、何も手に入らない。
進む力は、奴がくれた。
先へ、進もう。私にはそれしか出来ないのだから。
ふと気配を感じて、私は目を開いた。ソロモンの肩の向こうに、仮面の男が佇んでいた。ゆっくりと男は仮面を外す。
燕尾服を着た『私』は私を慈しむように微笑むと、周囲に溶け込んでやがて消えた。
よかったな
その一言だけを残して。
仮面の男は以前、言っていた。「私たちは分かれてはいけないのだ」と。分かれていることは気持ちいいけれど、それは他の誰かを拒絶することに繋がっていくから。
『私』達は、求め合うのではなく、拒絶しあうのでもなく、静かに一つであればいい。独りなのではなく、ひとつなのだということを忘れさえしなければいい。
もう、彼に会うことはないだろうと思った。
あるがままに、私を受け入れくれる存在のある限り。
もう一人の『私』は、二度と私の前に姿を現さないだろう。
そして残念ながら、私は、私を受け入れてくれる存在を逃がしてやる気はないのだ。
『責任はとってもらうぞ……ここまで私をお前で染めたんだ』
『…はい。ちゃんと責任とります。……約束、します』
あの「約束」はしっかり、守ってもらうつもりだ。
* * *
ただ抱き合っていただけの静寂を破って、小さな戯れがいつ始まったのかはわからない。
互いの肌を性急に探りあう中で、くすぐったいという感覚が、気持ちいいという感覚に変わるまでにそう長い時間はかからなかった。
ソロモン以外の誰にも触れられたことない場所を突き上げられながら、奴の言葉を聴く。
いいんですよ、声を抑えなくても
隣の部屋には誰も泊まらないように手配してありますから
…あなたの可愛い声を、他の誰かに聞かせたくなんてありませんから
この身体のどこにも、ソロモンが触れていない場所など無い。
奴に敏感にさせられた身体は、耳元に響く低く掠れた声にさえもびくりと反応してしまう。
何度も、何度も、奴の名前を呼んだ。
ソロモン、ソロモン、ソロモン、ソロモン………。
何度も、何度も、名前を呼ばれた。
カール、カール、カール、カール………。
思考を飛ばして本能のままに求め合う中で、その声だけは、確かに聞こえていた。
熱くて、苦しくて、痛くて…、けれども、触れあう場所から感じる全ての感覚に、体中が悦びの声をあげていた。
* * *
幾度も激しい熱を分け合った後、二人で静かに横になっていた。
ソロモンの瞳に私が写る。私の瞳は奴でいっぱいになっている。
互いの間にある無限回廊の中。ここに囚われるなら、それもいいのかもしれない。
…朝など、こなくても、いい。
「…眠らないんですか」
ソロモンが唐突に口を開いた。
「お前が眠るのを待っているんだ」
「…何故?」
「お前の寝顔を見たことがない。今日こそ見てやる」
「…見て楽しいものでもないですよ」
「それでもだ」
「…そんなに見つめられたら、眠れませんよ」
そう言って、困ったように笑うソロモンを見ながら、絶対にこいつの寝顔を見てやると決心したのだが、心地よい疲労感とソロモンの腕の温かさの中ではどうしても睡魔に抗えず、ソロモンの寝顔を見ることはできなかった。
* * *
朝日が入る部屋の中で、目を覚ます。一瞬、ここはどこなのだろう、と思ってから、ああ、ホテルに泊まりにきていたのだと納得する。
横にソロモンがいないことに気づいて、私が身体を起き上がらせると、窓際に佇んでいたソロモンは微笑みながら振り返った。
「お……」
おはよう、と言う前に唇を塞がれた。
どこか名残惜しい気がしながらもシャワーを浴びた後、朝食をとる。
それから部屋で軽くじゃれあってから、ホテルをチェックアウトした。
目を覚ました時は眩い朝日が部屋を満たしていたというのに、奴の車に送られる途中、大雨が振り出した。
「まるで誰かさんのようですね。晴れていると思ったら、こんなに……」
続けようとしたソロモンに、うるさいそれはお前だろう、と返し、私は窓の外を眺めた。
凄まじい雨だ。
「…ソロモン」
「はい?」
私は窓の外を見たまま言った。
「もし、この後用事がないのなら、部屋に来てくれないか…。もう少しだけ、傍にいたい」
自分でも驚くぐらいスムーズにこの言葉がでてきた。
「すみません、…このあと、用事があるので」
「…そうか」
仕方ない。
別に今生の別れというわけではないのだから、「それでも来い」とは言えない。
* * *
アパートの前に着いた時、まだ雨は全力で道に向かって自らを叩きつけていた。
私はソロモンの表情をうかがった。
ソロモンはこちらを、いつもと変わらない微笑で見ていた。
別れがたいとは思うが、いつまでも車をここに停めておくわけにもいかない。
「礼を、言う」
「倍返しを楽しみにしていますよ」
ぎこちなく私が言うと、やはりいつもと同じ穏やかな微笑をたたえながら、ソロモンは答えた。
私は車からでると、小走りでアパートの玄関口へ向かう。
雨に濡れない場所に着いてから、まだ停まっている車の方を振り返って手を振った。
ソロモンは片手を軽くあげると、車をだした。
しかし、大雨が降るのは珍しくはないが、こんなに降るとは。そんなことを思いながら、アパートの中に入ろうとすると、車が急停車する音がした。私は思わず足を止めて音のした方向を見る。
なんの配慮もない勢いで、車のドアが音を立てて開く。
ソロモンはドアを閉めもせずに、こちらへ向かって全速力で走ってきた。
奴の足が道に着地する度に、ざばぁ…ん、と音をたてて、水が四方に跳ねる。
奴が走ってくるのがスローモーションのように見える。突然の出来事に、私の脳がこちらに走ってくる奴を認識するより先に、スピードを全く緩めずに奴は私に飛びついてきた。
走ってきたのはほんの短い距離だと言うのに、やつの服はびしょ濡れになっていた。私の服も濡れる。
「カール……」
その声に、私はここが屋外だとか、人が見ているだとかそんなことを言うこともできずに、その場で固まった。
「ソロモン…?」
返事はない。
私を抱きしめる奴の腕の力に、体のどこかが軋むような音が聞こえた気がした。
「離れがたくて…ね…」
そう言って、ソロモンは私から体を離す。
顔中に水がしたたっていた。
「少し、寄っていくか?」
用事があると言っていたのは覚えていたが、訊く。
「いえ、いいんです。…すぐ、帰ります」
その言葉とは逆に、ソロモンはしばらく俯いたまま動かなかった。
どうした、と訊く前に、
「すみません、昨日あれだけ傍にいたから、離れられなくなっているみたいです。…でも大丈夫です。どうもお騒がせしました」
ソロモンはにっこりと微笑んで言った。ああ、いつものソロモンだ。
「帰ります」
ソロモンは踵を返した。
「またな」
「………」
私が言うと、ソロモンは立ち止まってから、
「ええ……また」
振り返らずに、言った。
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