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一緒に、とろけるような夢を見ましょう。
最後の思い出を作る為に。
<地獄への組曲 15>
気持ちの切り替えが早いのはいいことだと、ソロモンは思った。
いくらかかった? という問いにソロモンが答える気がないのを見て、カールは金のことはひとまず置いておいて、「プレゼント」を徹底的に楽しもうと決意したようだ。ソロモンそっちのけでカールが十分に部屋を探検・観察し終わるのを待ってから、ソロモンは一階のレストランへとカールを連れて行った。
予約しておいた席はすぐ中庭が見える席で、灯りに照らされた沢山の花々を見ることが出来た。テーブルの中央のグラスの中に緑の蝋燭があり、二人が席に着いた直後、ウェイターの手によって火がともされた。遠くにピアノの音を聞きながら、勉強お疲れ様、と言って互いのグラスを傾むけあった。説明するまでもなく豪華な食事の後、カールたっての希望でロビーを歩いてまわった。
壁にかかった絵画や、ホテルの造詣をカールは興味深げに眺め、時々ホテルマンを捕まえては色々と質問していた。
新しい場所から色々な刺激を受けているカールを見て、きっと留学に行ってもカールはこのペースで沢山のものを吸収してくるのだろうと思うと、そんなカールが羨ましくもあり、また誇らしくもあった。
カールの気が済むまで付き合ってから部屋に戻り、二人で風呂に入ることにした。カールとしては一人で入りたかったようだが、そこに関してソロモンは譲る気がなく二人では入るということで押し切ったのだ。
* * *
ちゃぷん…と、音が響く。浴室はガラス張りだった。円形の大きなバスタブには、白く甘い香りのする泡が溢れかえっている。泡の層が相当厚い。水面がまったく見えない。豊かな泡の手触りは滑らかで、手のひらに乗せても形が崩れないぐらいコシのある泡だった。湯船の縁の部分に、頭を乗せる用のくぼみがあって、カールはその用途に従って頭を乗せながら泡を手の上に乗せて息をかけて吹き散らしていた。鎖骨の辺りまで、泡で完全に体は隠れている。
「ミルクにするか泡にするか悩んだんですよ」
カールの丁度正面にいたソロモンが言った。バスタブがかなり広いので二人の間の距離はかなり離れている。カールは、そうか、と言いながらまた泡を大量に手の上に乗せた。
気に入ったようで良かったと思いながら、ソロモンはカールのほっそりとした首筋を見つめた。
長い黒髪が結い上げられ、いつもより線が強調された細首が泡の海から生えていて、ソロモンはその美しさに釘付けになる。いくら赤い印をつけても、まるで自分を拒むかのようにすぐに消えてしまうのを思い出してほんの少し寂しさを感じた。
「…なんだ?」
泡遊びに興じていたカールはようやく怪しいソロモンの視線に気付き、訊いた。
「綺麗な首だなー、と…」
カールはそこまで訊くと、すぐに首を泡の下へと沈めた。
「どうして今更隠すんですか…」
ソロモンはがっかりして言った。夜を共に過ごした仲じゃないですか、今更恥ずかしがらなくても、と不満を口にする。
「こんなに明るいところでしげしげと見られたくない」
だから二人で入るのは嫌だったんだとカールは顔をしかめて、首を泡の上にださないように注意しながら、天井を見上げる。
「広いな……」
「広いですねー」
しばらく、何も言わず互いに思い思いの方を眺める。
もちろんソロモンはカールに熱い視線を送っているのだが、カールは浴室を観察するのに忙しいようだった。そうやって自分のことを熱心に見てくれればいいのにとソロモンは恨めしくも思うが、それは仕方のないことだった。明日の別れを知る者と知らない者では、行動の仕方が違うのは当たり前だ。だからといって、ソロモンがカールに火傷しそうな視線を送るのをやめるわけではない。
「倍にして、返すからな」
「はい?」
唐突に言われて、ソロモンは訊き返した。カールの視線が、急に浴室観察からソロモンのもとへと帰還していたのだ。
「もらってばかりなのは、私のプライドが許さない…。いつか必ず、どんなに遅くなっても倍にして返すからな!ここより広いバスルームがついたホテルに、お前を泊まらせてやる。覚悟しておけ…!」
まるで血の復讐にでもくるかのような言葉。
もらってばかりなのは僕の方ですよ、と言ってもおそらく彼はその意味を理解してくれないだろうから、ソロモンはその言葉を紡ぐ代わりに、
「期待せずに待っていますよ」
と答えた。
期待せずには余計だ、とカールはむっ、とした顔で言った。
「いつか必ず」…か。と思いながら、ソロモンはぼんやりと天井を見上げた。
甘ったるい香りと心地よい湯に包まれていると、明日カールと別れることが現実でないような錯覚に陥る。明日も、明後日も…1年後も、10年後も、こうしてカールの傍にいられるような気がしてしまう。明日の別れなんて実は永遠にやってこないソロモンの妄想で、いつか本当にカールが、「見ろソロモン、あの時の借りを返すぞ!」と言いながら超高級ホテルに自分を連れて行ってくれるような気さえした。そんなことがありえないのはわかっている。ただ、今だけは幸せな夢を見ていたかった。
カールは浴室観察を再開していた。相変わらず二人の間は大きく空いている。ソロモンに近付く気配は全く無い。せっかく二人で入ったのに…と思っていると、
「広すぎましたね…」
思わず本音が口からでていた。その寂しげな声に、カールは思わず浴室観察をやめてソロモンを見る。
「…広い分にはいいじゃないか」
距離感を寂しく思っていたソロモンの胸中を知らずに、カールは言った。
「狭いバスタブなら、二人で密着せざるを得なくなるでしょう?」
カールを恨めしげに見るソロモンに、
「…広いバスタブで本当によかった」
カールは言った。
「カール」
ソロモンはカールに向かって両腕を伸ばした。さぁ、こちらへいらして下さい、と微笑む。一秒でも長く、カールを腕の中に感じていたい。
「………」
カールはその手をしばらく複雑そうに見つめる。
やがてため息をついてから、
「何も、するなよ」
カールは大人しく、ソロモンの腕の中に背中から入った。
カールからは見えていなかったのだが、背後のソロモンの顔は完全に緩みきっていた。
「…ソロモン」
嫌そうにカールが言う。
「はい」
「嫌なものが当っている」
「…少し我慢してください」
ソロモンは苦笑しながら、カール胸の前で泡を両手に乗せた。そのままカールの二の腕を掴んで、ゆっくりと上下させる。泡がなくなると、また両手にたっぷりと泡を乗せて、今度は首のあたりを撫でた。カールが気持ち良さそうに目を閉じていたことは、ソロモンは知りようがなかった。
「泡風呂にして正解だな。ミルクでもよかったかもしれないが」
「実は、…ミルク風呂であり、なおかつ泡風呂なんです」
言われて、カールは液体を泡を掻き分けて水面を見ようとするが、泡が多すぎて、いくらかき分けても、水面が見えて来なかった。
「カール。ほら」
ソロモンが泡の下に手を突っ込み泡ごと掬い上げると、両手の隙間から泡の下の液体をこぼした。確かに、それは真っ白な液体だった。
「本当にミルクだな」
「ええ」
カールは力を抜いて、身体をソロモンに預けた。安心しきったように弛緩するカールの身体を、ソロモンは優しく抱き締める。可愛いですね、と言ったら腕の中の愛らしい生き物はすぐに逃げてしまうだろうから、黙っておく。
ねぇ、カール、明日お別れなんて、きっとそれこそ悪い夢ですよね?
ソロモンの心の声がもちろん届くはずもなく、カールはしばらくまた浴室を見回した。手の上に泡を山のように乗せてから、
「先に希望を聞いておく。今度私がお前をホテルに連れてくる時は…何風呂がいい?」
そう訊いて、泡を使って軽くソロモンの手をマッサージした。
「ドリアン風呂」
「随分と危険な風呂だな」
カールは思わずマッサージする手を止めた。
「では薔薇風呂なんてどうです?最高級の精油を使うんです」
「ドリアン風呂と方向性が全く逆のような気がするが…。わかった、覚えておく」
しばらく二人は、静かに互いの考えに没頭した。
一人はカールのことしか考えず、もう一人は…。
「何も、してこないんだな。…してくると思ったんだが」
カールが唐突に言って、ソロモンの意識が一気に現実に引き戻された。
カールを腕の中に感じることだけに全神経を注いでいたのだ。
「してほしいんですか?」
「するならベッドがいい…」
カールが消え入りそうな声で言うと、
「いいですよここでしても…」
ソロモンは乗り気で言った。
「ベッドがいいと言っているだろうが!」
「遠慮しなくていいですよ」
「してない」
「カールが誘ったんでしょう?」
「誘ってない。何かしてくるかと思ったと言っただけだろう?」
「期待してるんですよ。ねぇ羊さん」
そう言った瞬間、ソロモンの手がちゃぷんと音を立てて泡の下へと深く沈む。
「…ソロモン…やめっ…」
カールは思わず声をあげた。
* * *
なんとかバスルームの危険人物の腕の中から無事逃げ出した羊は、冷たい水を飲んでからベッドにうつ伏せで倒れこんでいた。白いバスローブを着ている。
少し後にこれまたバスローブ姿の金髪の危険人物がやってきて、片手でチョコレートの入ったガラスの器をカールの横に置いてから、肘をついて横になった。
「怒ってます?」
「別に」
カールの答えにソロモンが微笑んで、
「はい、カール」
声をかけると、カールは顔を上げた。カールの目の前にソロモンの指とチョコがある。カールがぱくりとそのチョコを食べるとソロモンは満足そうに笑みを浮かべた。
カールが飲み込んだのを見計らって、またチョコレートをカールへと渡す。
「ミルクの次はチョコか。…私を食べる気か?」
言いながら、カールは2つ目のチョコレートを口にする。
「それはおいしそうですね」
ソロモンは手の甲でカールの首を撫でた。
「とても甘くて……」
ソロモンはまた、カールの口の上にチョコレートを持ってきた。カールが口にすると、ソロモンはすぐにガラスの器を脇に置いて、カールに口づけた。片手で、カールの頭を引き寄せる。
二つの舌の間で、先程まで形のあった甘い固体が、たちまち溶けていった。
存分に口づけを堪能してから、目を開くと、同時にカールも目を開けていた。間近で見詰め合いながら互いの額をあてて、微笑みあう。
幸せで仕方がない。
カールは目を細めながら、ソロモンの髪に指を絡めた。
「すまないな」
「…どうして、謝るんです?」
「最初に言うべきことを、言っていなかった」
「?」
なんのことだろう、とソロモンが疑問顔になると、カールは顔を赤らめた。
「『プレゼント』のことだ…。本当に、…ありがとう…」
照れくさそうに言うカールに、ソロモンは面食らった。そうだ、これはカールへの「プレゼント」だったのだ。いつの間にか、カールへのプレゼントというよりは、最後にいい思い出を作りたいということの方がメインになっていた。
「…どういたしまして」
内心を気づかれないように言いながら、チョコレートをまたカールに食べさせる。
ほんのりと上気したカールの素肌がバスローブの隙間から見えて、今すぐにでも抱いてしまいたいと思うのだが、その前に、話さなければならないことがあったのを思い出して、ぐっと我慢した。
「カール、聞いて欲しいことがあるんです」
「なんだ改まって。別れ話でも切り出す気か?」
当たらずも遠からずなところが怖い。
ソロモンはふふ、と笑いながら、そんなことあると思います?と言って、
「カールが留学に行ったら…、会えなくなるなぁ、と思うと…色々と思うこともあるんですよ」
と、ごまかしの言葉を並べた。本当はカールが留学する前に、会えなくなってしまうのだけれど。今はそっと、その事実を箱にしまって、鍵をかける。
ソロモンは上半身を起き上がらせた。ソロモンが手招きすると、カールはその意を察して、ソロモンの脚の上に頭を乗せた。ソロモンはカールのしめった黒髪をゆっくりと指先で梳く。ふれたところから甘い香りがふわりと匂いたった。
「本論に入る前に、少しお小言を聞いてください」
「小言……」
いきなり切り出すのはおかしい。他の話題から入った方がいいとソロモンは思っていた。
「まぁ、そう嫌そうな顔をしないでください。色々とね、心配していることもあるんですよ。こう見えても…あなたの留学のことで……人種的なこととか」
自分が言うのもなんだが、それは事実だった。皆まで言うまでもなく、
「ああ、それはあるだろうな…覚悟はしている」
カールはソロモンの意を汲み取って、頷く。
「僕が傍にいられれば、手をまわすこともできるんですが」
「抹殺しそうだな」
「しますよ。あなたの為なら」
本気とも冗談ともつかない笑みで見下ろすソロモンに、カールはにぃという笑みを返した。
共犯者。
「大量虐殺になりそうだ」
くく、と笑うカールを見下ろしながら、ソロモンは思いを馳せる。実際カールを傷つけようとする輩がいれば、ソロモンは裏から手を回して、いくら後悔しても後悔しきれないまでに相手を貶めてしまいそうだった。
「さて、ここからが本論です。まぁ、でも…、今から言うことは…戯言だと思っていただいてもらって構いません。僕も少しセンチメンタルになる夜があるもので」
軽い調子で言う。だが、これから告げるのは別れる前にどうしてもカールに伝えておきたいことだった。だが「別れ」をカールに気取られてはならないのだ。けれど、もちろん全てを話すことはできないけれど、ぎりぎりまでカールに伝えておきたいのだ。
自分の想いを。
「僕は…酷い男なんです」
「よく知ってる」
即答されて、ソロモンはくすりと笑いながら、指先でカールの頬を撫でた。
「そうですね。あなたは僕のことをよく知っていますから…でも、僕のことを誤解している方が、とても多いんです」
「人畜無害な人間に見えるって?」
「…まぁ、それも誤解のひとつではあります。でもその逆の誤解もあるんです」
カールは何も言わずに、静かにソロモンを見上げながら聞いている。
「よく、言われるんです。…お前は何人女と寝ただの。その詐欺師スマイルでどれだけ人を騙しただの。その他色々。でも、僕はそんなことをたやすくできる程器用ではありません。誰かを騙して、欺いて、傷つけて…そんなことをして平気でいられるような人間でもない。そういう意味の「酷い」人間ではありません。あなたを傷つけるような相手なら話は別ですが」
だが、繰り返し人を欺くうちに、いつか自分は慣れてしまうのだろうか?とも思う。
まだ自分はシュヴァリエになってから日が浅い。どんなに冷徹ぶってみても中途半端。相手を貶めることで、自分がそこからダメージを受けているのは否定できない。
翼手として生きていくうちに、そんな感覚はなくなってしまうのだろうか?
何も思うところもなく、苦しむこともなく人を欺き裏切ることが可能になるのだろうか。おそらくは、そうなることが、これから楽に生きるための一歩なのだとは思うのだが…。
「こんなことを言うのは…傲慢かもしれません。でも言ってしまいます。
僕は自分のことを善人だと思っていました。
人が傷つくのを平気で見ていられるような人間でもなかったし、誰かを助けたいといつも願っていたから…。
誰かを助けたいという願いの為に、僕は生きているのだと思い込んでいました。でもそれは、純粋に誰かを助けたい、という想いから来たものではなかった。結局僕はただ、自分の居場所を探していただけだった」
誰かを助けるという中に自分の居場所を見出していたのも束の間、すぐにその思いは裏切られた。助けたそばから、死んでいく。助けた人間がまた人間を殺す。
「どうしようもなく脆弱で、我侭で…。自分を受け入れてくれる場所を、ただ、探していたんです…。怖かった。自分が、いくらでも代えのきく人間だと思い知らされることが」
人の中で生きる限り、自分の居場所など無いと気づいた。
だから、人であることを、すんなりとやめられたのかもしれない。
「あの人」が自分の寄る辺になると信じられたから。
だが、現実は違った。自分の場所はやはりどこにもなくて、心はただ荒れていくばかりだった。そんな時に、カールと出会えたのだ。
「けれど、あなたに会って、僕の日々は変われたんです。今の僕にそんな恐れありません。
今まで、誰かに受け入れてもらうことに精一杯で、相手の幸せを考える余裕なんて、僕にはなかった。
…でも今は、とても満たされている。
それに、今こうしている時も…いつだってあなたの幸せを願っている。
…あなたに会えたことを、僕は本当に感謝しています」
どれだけ言葉を尽くしても、自分の愛情を全て説明することなんてできない。
言葉にしたところで陳腐な印象しか与えられないかもしれない……。
それでもなお、ほんの少しでも言葉にしておきたかった。
例え短い間であっても、カールといる時間は本当に価値のある時間だったのだ。
「愛しています…いえ、」
言い直す。
「Anh yeu chi em thoi」
もうその意味を、自分は知っている。
「あなただけを、愛しています」
たとえ明日別れても、ずっとずっと。永い時の中も、貴方だけを愛し続ける、と今口にすることの許されない言葉が、心の中で続いていった。
「………」
カールの瞳が悲しげに揺れる。
「カール?」
ソロモンが訊くのに答えず、カールは静かに身体を起こした。どうしたんですか? と言いながら、ソロモンも体を起こす。カールは床に降り立つと、窓の方へと歩いた。ソロモンが後を追って、カールの背後に着いた時、カールは背を向けたまま、言った。
「私がお前のことをどう思っているか、お前のように言葉にできればいいのに」
その背中が、いつもより小さく見えて、ソロモンは思わずカールを抱きしめた。カールは片手をソロモンの腕に沿え、もう片方の手の平を窓へとやった。カールの吐息があたり、窓がほんの少しだけ曇る。
「おかしいと思うだろう?既に身体を重ねた仲だというのに、私はお前に想いを告げることもできない。余計なことは、いくらでも言えるのにな」
「おかしいなんて、思いませんよ。僕にも…口にするのが難しい想いが、沢山ありますから」
口にする事が許されない想いがある。
例え許されても言葉にできない想いがある。
言葉にできても、発することのできない想いがある。
「でも、貴方の想いは知っていますよ」
「お前の思い違いかもしれないぞ?」
「そうですか?」
くすりと笑いながら、ソロモンは訊く。
「僕のこと、嫌いですか?」
「ああ」
「………」
一瞬だけ間があって、
「…好きですよね?」
ソロモンは訊き直した。
「…残念なことに」
カールは頷いた。カールの言葉に悪意がないことなんて、ソロモンには簡単にわかる。
「なら、いいんです。その気持ちだけがわかれば、十分です」
言葉は力を持つ。ある一言が発せられるか否かで運命が大きく変わることもある。
地獄へと堕ちるか、否か。そんな運命さえも。
言葉がいらない時間もある。だが、その逆もまた、ある。
地獄への分かれ目はそこにある。
ソロモンはそのことを、まだ、知らない。この時はまだ知らずともよかったのだ。
たった一つの言葉が、一人の人間の運命を永遠に変える力を持つ事もあるのだという、その事実を。
「わかりますか?それだけで、僕は本当に嬉しいんです。
でも…。
もし…僕が貴方から憎まれることがあったなら…それはあまりに苦しい生だと思います。地獄に堕ちる方がましかもしれない」
「それだけは、絶対に、ない」
カールは小さく言った。大きく息を吸う。
「え?」
「何があっても、私は…お前を心から憎むことなんて出来ないと思う」
「…カール…」
カールは大きく息をはいた。
「責任はとってもらうぞ……ここまで私をお前で染めたんだ」
「…はい。ちゃんと責任とります。……約束、します」
優しい嘘。それは、守れないと知る約束。
カールはソロモンの腕の中でゆっくりと振り返った。少し無理をして微笑んで、ソロモンの首に手をまわす。ソロモンはカールの瞳をしっかりと見ながら、言った。
「僕は、あなたのものですから」
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最後の思い出を作る為に。
<地獄への組曲 15>
気持ちの切り替えが早いのはいいことだと、ソロモンは思った。
いくらかかった? という問いにソロモンが答える気がないのを見て、カールは金のことはひとまず置いておいて、「プレゼント」を徹底的に楽しもうと決意したようだ。ソロモンそっちのけでカールが十分に部屋を探検・観察し終わるのを待ってから、ソロモンは一階のレストランへとカールを連れて行った。
予約しておいた席はすぐ中庭が見える席で、灯りに照らされた沢山の花々を見ることが出来た。テーブルの中央のグラスの中に緑の蝋燭があり、二人が席に着いた直後、ウェイターの手によって火がともされた。遠くにピアノの音を聞きながら、勉強お疲れ様、と言って互いのグラスを傾むけあった。説明するまでもなく豪華な食事の後、カールたっての希望でロビーを歩いてまわった。
壁にかかった絵画や、ホテルの造詣をカールは興味深げに眺め、時々ホテルマンを捕まえては色々と質問していた。
新しい場所から色々な刺激を受けているカールを見て、きっと留学に行ってもカールはこのペースで沢山のものを吸収してくるのだろうと思うと、そんなカールが羨ましくもあり、また誇らしくもあった。
カールの気が済むまで付き合ってから部屋に戻り、二人で風呂に入ることにした。カールとしては一人で入りたかったようだが、そこに関してソロモンは譲る気がなく二人では入るということで押し切ったのだ。
* * *
ちゃぷん…と、音が響く。浴室はガラス張りだった。円形の大きなバスタブには、白く甘い香りのする泡が溢れかえっている。泡の層が相当厚い。水面がまったく見えない。豊かな泡の手触りは滑らかで、手のひらに乗せても形が崩れないぐらいコシのある泡だった。湯船の縁の部分に、頭を乗せる用のくぼみがあって、カールはその用途に従って頭を乗せながら泡を手の上に乗せて息をかけて吹き散らしていた。鎖骨の辺りまで、泡で完全に体は隠れている。
「ミルクにするか泡にするか悩んだんですよ」
カールの丁度正面にいたソロモンが言った。バスタブがかなり広いので二人の間の距離はかなり離れている。カールは、そうか、と言いながらまた泡を大量に手の上に乗せた。
気に入ったようで良かったと思いながら、ソロモンはカールのほっそりとした首筋を見つめた。
長い黒髪が結い上げられ、いつもより線が強調された細首が泡の海から生えていて、ソロモンはその美しさに釘付けになる。いくら赤い印をつけても、まるで自分を拒むかのようにすぐに消えてしまうのを思い出してほんの少し寂しさを感じた。
「…なんだ?」
泡遊びに興じていたカールはようやく怪しいソロモンの視線に気付き、訊いた。
「綺麗な首だなー、と…」
カールはそこまで訊くと、すぐに首を泡の下へと沈めた。
「どうして今更隠すんですか…」
ソロモンはがっかりして言った。夜を共に過ごした仲じゃないですか、今更恥ずかしがらなくても、と不満を口にする。
「こんなに明るいところでしげしげと見られたくない」
だから二人で入るのは嫌だったんだとカールは顔をしかめて、首を泡の上にださないように注意しながら、天井を見上げる。
「広いな……」
「広いですねー」
しばらく、何も言わず互いに思い思いの方を眺める。
もちろんソロモンはカールに熱い視線を送っているのだが、カールは浴室を観察するのに忙しいようだった。そうやって自分のことを熱心に見てくれればいいのにとソロモンは恨めしくも思うが、それは仕方のないことだった。明日の別れを知る者と知らない者では、行動の仕方が違うのは当たり前だ。だからといって、ソロモンがカールに火傷しそうな視線を送るのをやめるわけではない。
「倍にして、返すからな」
「はい?」
唐突に言われて、ソロモンは訊き返した。カールの視線が、急に浴室観察からソロモンのもとへと帰還していたのだ。
「もらってばかりなのは、私のプライドが許さない…。いつか必ず、どんなに遅くなっても倍にして返すからな!ここより広いバスルームがついたホテルに、お前を泊まらせてやる。覚悟しておけ…!」
まるで血の復讐にでもくるかのような言葉。
もらってばかりなのは僕の方ですよ、と言ってもおそらく彼はその意味を理解してくれないだろうから、ソロモンはその言葉を紡ぐ代わりに、
「期待せずに待っていますよ」
と答えた。
期待せずには余計だ、とカールはむっ、とした顔で言った。
「いつか必ず」…か。と思いながら、ソロモンはぼんやりと天井を見上げた。
甘ったるい香りと心地よい湯に包まれていると、明日カールと別れることが現実でないような錯覚に陥る。明日も、明後日も…1年後も、10年後も、こうしてカールの傍にいられるような気がしてしまう。明日の別れなんて実は永遠にやってこないソロモンの妄想で、いつか本当にカールが、「見ろソロモン、あの時の借りを返すぞ!」と言いながら超高級ホテルに自分を連れて行ってくれるような気さえした。そんなことがありえないのはわかっている。ただ、今だけは幸せな夢を見ていたかった。
カールは浴室観察を再開していた。相変わらず二人の間は大きく空いている。ソロモンに近付く気配は全く無い。せっかく二人で入ったのに…と思っていると、
「広すぎましたね…」
思わず本音が口からでていた。その寂しげな声に、カールは思わず浴室観察をやめてソロモンを見る。
「…広い分にはいいじゃないか」
距離感を寂しく思っていたソロモンの胸中を知らずに、カールは言った。
「狭いバスタブなら、二人で密着せざるを得なくなるでしょう?」
カールを恨めしげに見るソロモンに、
「…広いバスタブで本当によかった」
カールは言った。
「カール」
ソロモンはカールに向かって両腕を伸ばした。さぁ、こちらへいらして下さい、と微笑む。一秒でも長く、カールを腕の中に感じていたい。
「………」
カールはその手をしばらく複雑そうに見つめる。
やがてため息をついてから、
「何も、するなよ」
カールは大人しく、ソロモンの腕の中に背中から入った。
カールからは見えていなかったのだが、背後のソロモンの顔は完全に緩みきっていた。
「…ソロモン」
嫌そうにカールが言う。
「はい」
「嫌なものが当っている」
「…少し我慢してください」
ソロモンは苦笑しながら、カール胸の前で泡を両手に乗せた。そのままカールの二の腕を掴んで、ゆっくりと上下させる。泡がなくなると、また両手にたっぷりと泡を乗せて、今度は首のあたりを撫でた。カールが気持ち良さそうに目を閉じていたことは、ソロモンは知りようがなかった。
「泡風呂にして正解だな。ミルクでもよかったかもしれないが」
「実は、…ミルク風呂であり、なおかつ泡風呂なんです」
言われて、カールは液体を泡を掻き分けて水面を見ようとするが、泡が多すぎて、いくらかき分けても、水面が見えて来なかった。
「カール。ほら」
ソロモンが泡の下に手を突っ込み泡ごと掬い上げると、両手の隙間から泡の下の液体をこぼした。確かに、それは真っ白な液体だった。
「本当にミルクだな」
「ええ」
カールは力を抜いて、身体をソロモンに預けた。安心しきったように弛緩するカールの身体を、ソロモンは優しく抱き締める。可愛いですね、と言ったら腕の中の愛らしい生き物はすぐに逃げてしまうだろうから、黙っておく。
ねぇ、カール、明日お別れなんて、きっとそれこそ悪い夢ですよね?
ソロモンの心の声がもちろん届くはずもなく、カールはしばらくまた浴室を見回した。手の上に泡を山のように乗せてから、
「先に希望を聞いておく。今度私がお前をホテルに連れてくる時は…何風呂がいい?」
そう訊いて、泡を使って軽くソロモンの手をマッサージした。
「ドリアン風呂」
「随分と危険な風呂だな」
カールは思わずマッサージする手を止めた。
「では薔薇風呂なんてどうです?最高級の精油を使うんです」
「ドリアン風呂と方向性が全く逆のような気がするが…。わかった、覚えておく」
しばらく二人は、静かに互いの考えに没頭した。
一人はカールのことしか考えず、もう一人は…。
「何も、してこないんだな。…してくると思ったんだが」
カールが唐突に言って、ソロモンの意識が一気に現実に引き戻された。
カールを腕の中に感じることだけに全神経を注いでいたのだ。
「してほしいんですか?」
「するならベッドがいい…」
カールが消え入りそうな声で言うと、
「いいですよここでしても…」
ソロモンは乗り気で言った。
「ベッドがいいと言っているだろうが!」
「遠慮しなくていいですよ」
「してない」
「カールが誘ったんでしょう?」
「誘ってない。何かしてくるかと思ったと言っただけだろう?」
「期待してるんですよ。ねぇ羊さん」
そう言った瞬間、ソロモンの手がちゃぷんと音を立てて泡の下へと深く沈む。
「…ソロモン…やめっ…」
カールは思わず声をあげた。
* * *
なんとかバスルームの危険人物の腕の中から無事逃げ出した羊は、冷たい水を飲んでからベッドにうつ伏せで倒れこんでいた。白いバスローブを着ている。
少し後にこれまたバスローブ姿の金髪の危険人物がやってきて、片手でチョコレートの入ったガラスの器をカールの横に置いてから、肘をついて横になった。
「怒ってます?」
「別に」
カールの答えにソロモンが微笑んで、
「はい、カール」
声をかけると、カールは顔を上げた。カールの目の前にソロモンの指とチョコがある。カールがぱくりとそのチョコを食べるとソロモンは満足そうに笑みを浮かべた。
カールが飲み込んだのを見計らって、またチョコレートをカールへと渡す。
「ミルクの次はチョコか。…私を食べる気か?」
言いながら、カールは2つ目のチョコレートを口にする。
「それはおいしそうですね」
ソロモンは手の甲でカールの首を撫でた。
「とても甘くて……」
ソロモンはまた、カールの口の上にチョコレートを持ってきた。カールが口にすると、ソロモンはすぐにガラスの器を脇に置いて、カールに口づけた。片手で、カールの頭を引き寄せる。
二つの舌の間で、先程まで形のあった甘い固体が、たちまち溶けていった。
存分に口づけを堪能してから、目を開くと、同時にカールも目を開けていた。間近で見詰め合いながら互いの額をあてて、微笑みあう。
幸せで仕方がない。
カールは目を細めながら、ソロモンの髪に指を絡めた。
「すまないな」
「…どうして、謝るんです?」
「最初に言うべきことを、言っていなかった」
「?」
なんのことだろう、とソロモンが疑問顔になると、カールは顔を赤らめた。
「『プレゼント』のことだ…。本当に、…ありがとう…」
照れくさそうに言うカールに、ソロモンは面食らった。そうだ、これはカールへの「プレゼント」だったのだ。いつの間にか、カールへのプレゼントというよりは、最後にいい思い出を作りたいということの方がメインになっていた。
「…どういたしまして」
内心を気づかれないように言いながら、チョコレートをまたカールに食べさせる。
ほんのりと上気したカールの素肌がバスローブの隙間から見えて、今すぐにでも抱いてしまいたいと思うのだが、その前に、話さなければならないことがあったのを思い出して、ぐっと我慢した。
「カール、聞いて欲しいことがあるんです」
「なんだ改まって。別れ話でも切り出す気か?」
当たらずも遠からずなところが怖い。
ソロモンはふふ、と笑いながら、そんなことあると思います?と言って、
「カールが留学に行ったら…、会えなくなるなぁ、と思うと…色々と思うこともあるんですよ」
と、ごまかしの言葉を並べた。本当はカールが留学する前に、会えなくなってしまうのだけれど。今はそっと、その事実を箱にしまって、鍵をかける。
ソロモンは上半身を起き上がらせた。ソロモンが手招きすると、カールはその意を察して、ソロモンの脚の上に頭を乗せた。ソロモンはカールのしめった黒髪をゆっくりと指先で梳く。ふれたところから甘い香りがふわりと匂いたった。
「本論に入る前に、少しお小言を聞いてください」
「小言……」
いきなり切り出すのはおかしい。他の話題から入った方がいいとソロモンは思っていた。
「まぁ、そう嫌そうな顔をしないでください。色々とね、心配していることもあるんですよ。こう見えても…あなたの留学のことで……人種的なこととか」
自分が言うのもなんだが、それは事実だった。皆まで言うまでもなく、
「ああ、それはあるだろうな…覚悟はしている」
カールはソロモンの意を汲み取って、頷く。
「僕が傍にいられれば、手をまわすこともできるんですが」
「抹殺しそうだな」
「しますよ。あなたの為なら」
本気とも冗談ともつかない笑みで見下ろすソロモンに、カールはにぃという笑みを返した。
共犯者。
「大量虐殺になりそうだ」
くく、と笑うカールを見下ろしながら、ソロモンは思いを馳せる。実際カールを傷つけようとする輩がいれば、ソロモンは裏から手を回して、いくら後悔しても後悔しきれないまでに相手を貶めてしまいそうだった。
「さて、ここからが本論です。まぁ、でも…、今から言うことは…戯言だと思っていただいてもらって構いません。僕も少しセンチメンタルになる夜があるもので」
軽い調子で言う。だが、これから告げるのは別れる前にどうしてもカールに伝えておきたいことだった。だが「別れ」をカールに気取られてはならないのだ。けれど、もちろん全てを話すことはできないけれど、ぎりぎりまでカールに伝えておきたいのだ。
自分の想いを。
「僕は…酷い男なんです」
「よく知ってる」
即答されて、ソロモンはくすりと笑いながら、指先でカールの頬を撫でた。
「そうですね。あなたは僕のことをよく知っていますから…でも、僕のことを誤解している方が、とても多いんです」
「人畜無害な人間に見えるって?」
「…まぁ、それも誤解のひとつではあります。でもその逆の誤解もあるんです」
カールは何も言わずに、静かにソロモンを見上げながら聞いている。
「よく、言われるんです。…お前は何人女と寝ただの。その詐欺師スマイルでどれだけ人を騙しただの。その他色々。でも、僕はそんなことをたやすくできる程器用ではありません。誰かを騙して、欺いて、傷つけて…そんなことをして平気でいられるような人間でもない。そういう意味の「酷い」人間ではありません。あなたを傷つけるような相手なら話は別ですが」
だが、繰り返し人を欺くうちに、いつか自分は慣れてしまうのだろうか?とも思う。
まだ自分はシュヴァリエになってから日が浅い。どんなに冷徹ぶってみても中途半端。相手を貶めることで、自分がそこからダメージを受けているのは否定できない。
翼手として生きていくうちに、そんな感覚はなくなってしまうのだろうか?
何も思うところもなく、苦しむこともなく人を欺き裏切ることが可能になるのだろうか。おそらくは、そうなることが、これから楽に生きるための一歩なのだとは思うのだが…。
「こんなことを言うのは…傲慢かもしれません。でも言ってしまいます。
僕は自分のことを善人だと思っていました。
人が傷つくのを平気で見ていられるような人間でもなかったし、誰かを助けたいといつも願っていたから…。
誰かを助けたいという願いの為に、僕は生きているのだと思い込んでいました。でもそれは、純粋に誰かを助けたい、という想いから来たものではなかった。結局僕はただ、自分の居場所を探していただけだった」
誰かを助けるという中に自分の居場所を見出していたのも束の間、すぐにその思いは裏切られた。助けたそばから、死んでいく。助けた人間がまた人間を殺す。
「どうしようもなく脆弱で、我侭で…。自分を受け入れてくれる場所を、ただ、探していたんです…。怖かった。自分が、いくらでも代えのきく人間だと思い知らされることが」
人の中で生きる限り、自分の居場所など無いと気づいた。
だから、人であることを、すんなりとやめられたのかもしれない。
「あの人」が自分の寄る辺になると信じられたから。
だが、現実は違った。自分の場所はやはりどこにもなくて、心はただ荒れていくばかりだった。そんな時に、カールと出会えたのだ。
「けれど、あなたに会って、僕の日々は変われたんです。今の僕にそんな恐れありません。
今まで、誰かに受け入れてもらうことに精一杯で、相手の幸せを考える余裕なんて、僕にはなかった。
…でも今は、とても満たされている。
それに、今こうしている時も…いつだってあなたの幸せを願っている。
…あなたに会えたことを、僕は本当に感謝しています」
どれだけ言葉を尽くしても、自分の愛情を全て説明することなんてできない。
言葉にしたところで陳腐な印象しか与えられないかもしれない……。
それでもなお、ほんの少しでも言葉にしておきたかった。
例え短い間であっても、カールといる時間は本当に価値のある時間だったのだ。
「愛しています…いえ、」
言い直す。
「Anh yeu chi em thoi」
もうその意味を、自分は知っている。
「あなただけを、愛しています」
たとえ明日別れても、ずっとずっと。永い時の中も、貴方だけを愛し続ける、と今口にすることの許されない言葉が、心の中で続いていった。
「………」
カールの瞳が悲しげに揺れる。
「カール?」
ソロモンが訊くのに答えず、カールは静かに身体を起こした。どうしたんですか? と言いながら、ソロモンも体を起こす。カールは床に降り立つと、窓の方へと歩いた。ソロモンが後を追って、カールの背後に着いた時、カールは背を向けたまま、言った。
「私がお前のことをどう思っているか、お前のように言葉にできればいいのに」
その背中が、いつもより小さく見えて、ソロモンは思わずカールを抱きしめた。カールは片手をソロモンの腕に沿え、もう片方の手の平を窓へとやった。カールの吐息があたり、窓がほんの少しだけ曇る。
「おかしいと思うだろう?既に身体を重ねた仲だというのに、私はお前に想いを告げることもできない。余計なことは、いくらでも言えるのにな」
「おかしいなんて、思いませんよ。僕にも…口にするのが難しい想いが、沢山ありますから」
口にする事が許されない想いがある。
例え許されても言葉にできない想いがある。
言葉にできても、発することのできない想いがある。
「でも、貴方の想いは知っていますよ」
「お前の思い違いかもしれないぞ?」
「そうですか?」
くすりと笑いながら、ソロモンは訊く。
「僕のこと、嫌いですか?」
「ああ」
「………」
一瞬だけ間があって、
「…好きですよね?」
ソロモンは訊き直した。
「…残念なことに」
カールは頷いた。カールの言葉に悪意がないことなんて、ソロモンには簡単にわかる。
「なら、いいんです。その気持ちだけがわかれば、十分です」
言葉は力を持つ。ある一言が発せられるか否かで運命が大きく変わることもある。
地獄へと堕ちるか、否か。そんな運命さえも。
言葉がいらない時間もある。だが、その逆もまた、ある。
地獄への分かれ目はそこにある。
ソロモンはそのことを、まだ、知らない。この時はまだ知らずともよかったのだ。
たった一つの言葉が、一人の人間の運命を永遠に変える力を持つ事もあるのだという、その事実を。
「わかりますか?それだけで、僕は本当に嬉しいんです。
でも…。
もし…僕が貴方から憎まれることがあったなら…それはあまりに苦しい生だと思います。地獄に堕ちる方がましかもしれない」
「それだけは、絶対に、ない」
カールは小さく言った。大きく息を吸う。
「え?」
「何があっても、私は…お前を心から憎むことなんて出来ないと思う」
「…カール…」
カールは大きく息をはいた。
「責任はとってもらうぞ……ここまで私をお前で染めたんだ」
「…はい。ちゃんと責任とります。……約束、します」
優しい嘘。それは、守れないと知る約束。
カールはソロモンの腕の中でゆっくりと振り返った。少し無理をして微笑んで、ソロモンの首に手をまわす。ソロモンはカールの瞳をしっかりと見ながら、言った。
「僕は、あなたのものですから」
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