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 じゃらじゃらと音がする。動くたびに鳴るその音。

 少し離れた所にカールが眠っている。近づいて手を伸ばそうとする時、その音の正体に気づく。
 鎖。
 もう少しでカールに触れられるというところで、鎖はそれ以上の接近を許さない。
 何故、阻まれなければならないのか。
 不満が噴き出すたびに、鎖に繋がれた腕の皮膚が破れて血を流す。
 耐えられないと思うたびに、黒い感情が頭の中をせり上がってくる。

 全て忘れてしまいたい。カールの痛みも何もかも。
 カールの苦痛?
 そんなもの、これから永い時の中を孤独に生きなければいけない自分に比べれば、小さなものではないのか?
 自分の幸せを追求することの、何がいけない?
 一緒にいて欲しいと願うことの何がいけない?

 こんなことを考える自分が愚かだと言うことは、十分すぎるほどにわかっている。

 …自分は化け物だと思う。
 自分の幸せしか願えず、相手の不幸を啜り続ける化け物。
 思えば、人としての生を捨てる前から、自分は化け物を心に飼っていたのかもしれない。

 どうして、僕は、あなたの幸せを心から願えない。



 地獄への組曲 9



「明日の夜にそちらに着く。兄に対して無礼のないように迎えてもらいたいものだな、ソロモン?」
 グレゴリーからの電話は、ただでさえ平穏でないソロモンの心を荒らすのに十分なものだった。グレゴリーが来る。長兄からの書-次のシュヴァリエが誰かが書かれている―を携えて。
「ラスプーチン役」をしばらく長兄に演じられることにいささかの不満はあったようだが、ソロモンを苛むことに至上の悦楽を見出しているらしいこの兄の声は嬉々としていた。
 おそらくはロシアに立ち寄った長兄から、無理やり伝令をむしりとったのだろう。そうでなければ長兄が直接こちらへ来ない理由がない。
 電話で言えない内容ということもあるだろうが、例えそうでなくても、グレゴリーはソロモンの苦しむ顔が見られるのなら自ら出陣したのだろう。
 この仕事を長兄から与えられた時、ソロモンが乗り気でなかったことを、グレゴリーは知っていた筈なのだ。
 2、3言葉を交わして、すぐに電話を切ってから、ソロモンは魂が抜けたように、ソファに座り込んだ。

…5番目のシュヴァリエは、誰?

 何度も何度も問うたこの問に、ついに明日答えがでる。決定事項が覆ることはありえない。自分にできること何一つはない。
「カール…、あなたと、離れたくない」
 ソロモンはぽつりと呟いた。
 まだ、ソロモンがシュヴァリエになってから一年も経っていない。この短い期間でさえ、シュヴァリエとしての生に孤独感を感じない日はなかった。
 カールと会っている時でさえ、孤独感が幾分和らいだにせよ、いつだって自分は不安感と戦わなければならなかったのだ。カールと会えば会うほどに、自分が二つの想いに引き裂かれる痛みが増していくばかりだった。

 早く、楽になりたかった。

 やらなければいけない仕事にどうしても手をつけることができず、ソロモンはカールの部屋へと向かった。ノックしようとして、ふとソロモンは、その手を引っ込めた。おそらく今、自分は相当酷い顔をしている。そんな顔をカールに見せて、どうするのだ? どうした、と訊かれたら、どう答える?

 溜息をついて立ち去ろうとした瞬間、視界の隅に、罠に引っかかったネズミが見えた。ソロモンはしゃがんで、ネズミをまじまじと見つめた。
このネズミが自由の身になることは、おそらく二度とないだろう。自分がカールに望んでいるのは、これと同じことではないのか?本人の全く望まない場所に捕らえて、苦痛を与え続けて…。
 急に開いたドアに、ソロモンが頭をぶつけたのはこの数分後だった。

   *    *    *

「ついてこい」
 と言われ、行き先も訊かぬままカールに連れられて、ソロモンは市場へとやってきていた。カールはここで食べ物をいくらか買ってから、目的地に行くと言っていた。市は、国境を越えて運び込まれた果物を売る店が並び、南国の果物が放つ独特の匂いで溢れていた。肉を焼く香ばしい匂いも混じり、市特有の空気が作り出されている。
 昼の暑さの為か、夜空の下、市は大勢の人で賑わっていた。カールは慣れたように人ごみをぬいながら進む。目当てのものを買うと、ソロモンに持たせてさっさと他の店に行ってしまう。
店員と値引き交渉をするカールを、ソロモンは後ろから見守る。
荷物持ちに徹することには特に文句はなかったのだが、持つ量がだいぶ増えてきて、ソロモンはカールを呼び止めた。

「あの、カール。こんなに買って大丈夫なんですか?いくら安いとは言っても……」

 ソロモンの言葉に、カールが固まった。財布を持つ手が機械的な震え方をしているのを見て、

「こ、この辺にしておきましょうカール。ね?」

 ソロモンは宥める様に言った。
 カールは財布の中身をちらっ、と見て蒼ざめてから、

「…そうしよう…」

 蚊の鳴くような声で言った。



 市場から十分ほど歩いたところに、目的地はあった。
 タイ湖。ハノイ北部に位置するその湖は、湖の多いハノイの中でも最大の大きさを誇る湖で、その周りには、ポートレストランや、出店などが軒を連ねているが、二人が向かった先は建物等が建っていない、ひと気の全くない岸だった。足首の辺りまで草が生えているその場所で、二人は腰を降ろした。

 月が二つ浮かぶ。透明な夜空に、穏やかな湖面に。

 満腹になった為か、満足したようにカールは草むらに寝そべり、先程からずっと、何も言わずに夜空を見上げている。いつもは少食なのだが、この日のカールはよく食べた。市場で買ってきた食べ物を、一体その細い体のどこにいれたんだと訊きたくなる程食べた。ソロモンも、カールに強くすすめられて、つい食べ過ぎてしまった。
 互いに一言も発さないが、そこに気まずさは全くなく、むしろソロモンはその沈黙が不思議と心地よかった。
明日が、このまま永遠にこないような気すらした。

「ソロモン」
「はい?」
「お前も横になれ。あれだけ食べて…、ここで星を見ていれば、余計なことは考えなくて済む」

 満腹の時にぐだぐだと考えても仕方ないからな…と言うより、細かいことなんて考えられないだろう?とカールは微笑んだ。
余計なことを考えなくて済む、と言う言葉に、ソロモンはぎくりとした。カールに何もかも見抜かれているような気がしたのだ。知っているわけがないのに、明日グレゴリーが来ることすらお見通しなのではないかという考えすら浮かんだ。
 そんなわけがない、と自分を叱咤しながらも、ソロモンは訊いた。
「ひょっとして…僕のためにあんなに買い込んで…ここまで連れてきてくれたんですか?」
 カールは何も言わず、ただ夜空を見上げていた。
 ソロモンはカールの横で寝そべった。カールは、ソロモンの様子がおかしいことを見抜いたのだろうか?カールの真意はわからない。だが…、
「ありがとう、カール」
 ソロモンは感謝の言葉を口にせずにはいられなかった。
「…お前に感謝されることはなにもしていない。全部自分のためだ」
 カールはぶっきらぼうに答える。
「では、カール」
 ソロモンは体を起こして、手をカールの頭の両隣において、カールの顔を覗きこむようにして、言った。
「教えてください。ここに来た目的を」
「…何だと思う?」
「『気分転換』以外の答えを期待しているんですけど」
「教えない、と言ったらどうする?」
 カールの言葉にソロモンは意地悪な笑みを浮かべた。
 それはいつもの『約束』を破ろうとする時のソロモンの顔より、かなり意地の悪いものだった。
 ソロモンが次の言葉を紡ごうとした瞬間、その頬をカールの両手が包み込む。
「…いいぞ。抱いても」
 ソロモンが冗談めいた口調で言葉を発する前に、カールが言った。
 湖面が風に揺れる。
 ソロモンはカールの言ったことが一瞬わからず、

「今、なんて?」
 思わず聞き返した。
「お前の好きにしていい」
「…あの…屋外ですよ。ここ…?」
「そうだな」
 それがどうした、という風に泰然としているカールとは逆に、ソロモンの瞳は動揺で震えていた。
 互いに全く動かず言葉を発さない中、沈黙を破ったのはカールだった。
「…やっぱりな」
 …やっぱり?
 何が「やっぱり」なのかとソロモンが問おうとした瞬間、
「ソロモン。…本当のお前はどこにいる…?」
 目を真っ直ぐに見つめられながらカールにそう問われ、ソロモンの肩が震えた。

  ここにいます。

 そう言いたいのに、ソロモンの唇がその言葉を紡ぎだすことはなかった。
 それが、嘘の答えだということを知っていたからだ。
「何を、そんなに恐れている?」
 言ってしまいたい。自分の不安も、恐れも、包み隠さず全てを。
 楽になりたい。

「言えません」
 ソロモンは震える声で言った。
「言えないんです」
 自分に言い聞かせるように、そう繰り返した。
「…わかった」
 カールは苦笑した。
 達観したようなその表情に、ソロモンは、
「あなたは、僕のことをどこまで知ってるんですか?」
 と訊いたが、カールは答えなかった。
 質問が間違っていたのかもしれない。そんなことは誰にも答えられないのだ。自分でさえも。
「何故、僕のことをそんなに知っているんですか?」
 カールは頬に手を添えたまま、ソロモンの唇を指先で撫でた。
「お前を、見ていたから」

 …ああ、そうか。とソロモンは悟った。
 いつも、カールが羨ましかった。真っ直ぐ前を見詰めるカールが。
 羨ましいと感じながら、そこに自分の姿は映っていないのだと思い込んでいた。
 自分ばかりがカールを見ていると思っていた。そして自分ばかりが苦しんでいるのだと。

 本当は、逆だった。

 相手を、カールを見ていなかったのは自分の方だった。
ただ不安な未来に怯えるばかりで、何時の間にか、目の前のカールを見なくなっていた。
 カールとて大きなものを抱えて生きている。それでも自分を見ていてくれていたのに。
 魂が抜けたような瞳のソロモンの頬を、
「おい、生きてるか?」
 カールがぺしぺしと叩いた。
 ソロモンは答えられないまま、再び草むらに力なく転がった。
「…ソロモン?」
 カールは体を起き上がらせて、大丈夫か?と訊いた。
「…大丈夫です」
 どうしてこんなに、気づくのが遅れたのだろう。カールと出会った瞬間から、自分は一人ではなかったのだと。
「僕は…馬鹿ですね…」
 そう呟くと、
「全くだ」
 言いながらカールは、ソロモンの胸に顔を埋めた。
ソロモンは少し戸惑いながらも、さらさらとしたその髪を指先で丹念に梳く。
「ねぇカール、どうしてあなたは僕の傍にいてくれるんですか?」
「…馬鹿だから」
 それは、僕がですか?あなたがですか?
 おそらくは両方なのだろうと思って、ソロモンは何も訊かなかった。

 ソロモンは目を閉じて、今ここにいるカールの重みを感じながら、自分に訊いてみた。
 本当に、カールがシュヴァリエになることを望んでいるのか?と。
 その問いが、心に、体中に染み渡っていく。
(………………)
 誰も、その問いには答えなかった。答えるまでもなかった。
 ソロモンはゆっくりと瞳を開く。その表情は、小波一つ立たない湖面のように穏やかだった。
「カール」
 愛しい人の名前を呟く。
「………」
 答えが無い。
「カール?」
 名前を呼んだ後、すやすやという寝息が耳に届いて、
「寝付くのが早すぎませんか……??」
 ソロモンは苦笑した。
 既に夢を見ているのか、カールがなにやら寝言を言い始めたのだが、ベトナム語なので何を言っているのかわからない。
「一体、どんな夢を見ているんでしょうね?」
「…ソロモン…」
「おや、僕が登場ですか?」
 カールの指先が、ソロモンの襟元のあたりを滑っていく。
「…Anh yeu chi em thoi」
 今まで聞いたことのないようなカールの甘い声に驚いて、ソロモンは思わず髪を梳く手を止めた。『…Anh yeu chi em thoi』…どういう意味だろうと思いながら、ソロモンは、
「カール、風邪をひきますよ」
 ぽんぽん、と軽くカールの背を叩いた。自分としては、ずっとこうしていたいところだったのだが。
「…ん…?」
 カールはぼんやりとした目で顔を上げた。
「…あ…寝て…たのか…?」
「はい。驚きましたよ。気づいたら寝てましたから…ところでカール、…Anh yeu chi em thoiってどういう意味ですか?」
 きょとんとした顔でカールはソロモンを見つめた。…発音が悪かったのだろうか?
「もう一回言ってみてくれないか」
「Anh yeu chi em thoi」
「…それ、どこで聞いた?」
「さっきあなたが寝言で言ってました」
 カールは弾かれるように、ソロモンから身を引いた。口を手で覆い、真っ赤になっている。
「カール?どうしたんですか」
「なんでもない…」
 『なんでもない』。その言葉を、似たような状況でカールから聞いたことがある気がした。
 既視感?
 ソロモンは記憶を辿って、その状況を思い浮かべる。
 あの時も、確かそばに湖があった……。
 ソロモンは微笑みながら、
「カール…。もし、『教えてください』って言ったら、『そのうち教えるから、今は訊くな』って言うんでしょう?」
 カールはこれ以上ないぐらいに赤くなって、ソロモンの視線から必死に逃れようとしていた。今カールの顔の上に水を垂らしたら、一瞬で蒸発するかもしれない。

「しょうがない人ですね…屋外で『抱いてもいい』なんて真顔で言っておいて、何を今更恥ずかしがるんです?」
「うるさい…」

 背を向けるカールの背中がたまらなく愛しくて、ソロモンはその背を抱きしめた。舌をカールの耳に差し入れてから、
「Anh yeu chi em thoi」
 愛を込めて、そう呟く。
「…!!意味を分かっていて使っているだろう!?」
「いいえ?でも、素敵な言葉なんだ、ってことだけは理解していますよ」
 ソロモンは本当に、「Anh yeu chi em thoi」の意味を、全く知らなかった。
 ただ、赤くなったカールの顔、そして寝言で言った時の甘やかなカールの声から、なんとなく、その言葉の伝えたい想いを感じ取っただけだ。大切な人に伝えるべき想いを。

「これからも、使っていいですか?」
 カールが呻いた。
 しばらく、沈黙があってから、
「…私以外の奴に使うなよ」
 カールは平静を保とうという努力が見え隠れする声で、言った。
「約束します」
 幾分高くなったカールの体温を感じながら、もう一度、
「Anh yeu chi em thoi」
 とソロモンはカールの耳元で囁いた。

*   *   *

「…この湖のもう一つの名前…知っているか?」
「…?いえ…」
「『霧の湖』…朝方になれば、この湖に霧が立ち込める。そして朝日が昇ると…、霧が金色に輝くんだ…そのうち、見られるといいな」
「…待ちましょう」
「?」
「朝日が昇るまで、ここで」
「急に、どうした?」
「…見られる時に、見ておきたいんです」


*   *   *

 本当に、数時間、二人はその場を動かなかった。
 そして、霧が金色に輝く中で、カールが言ったのだ。
「お前がいつか、こういう風に笑えるようになればいいな…いつもの貼り付けたような笑顔ではなくて」

 もう、長兄の決定は下っている。今更何を祈っても、変わりはしない。
 だからただ一つだけ、ソロモンは『霧の湖』と、輝く金色に願った。
 カールに下された審判がどちらであるにせよ、自分がカールの為に行動できるように。
 自分の幸せを願ってくれた人の為に。

  Anh yeu chi em thoi


 どうするかは、もう、決めていた。
 もしカールが五番目のシュヴァリエに選ばれたら、その時は……。


*   *   *


 ソロモンの自宅のオフィスで、漆黒のアオザイらしきものに身を包み、頭の高い位置で長い銀髪を結い上げた男――グレゴリー――が、仕事机に横柄に座りながらワイングラスを傾けていた。
 帰ってきたソロモンはグレゴリーを見て唖然として立ち尽くす。グレゴリーはソロモンの姿を確認すると、楽しそうにワイングラスを片手に、優雅に舞い始めた。
「どうしたソロモン?アオザイの青年が好きなのではないのか?」
 けらけらと笑いながらも、目の奥にあるソロモンへの憎悪の光を消そうともせず、グレゴリーはワインを口に含んだ。
「『カール、カール』」
 ソロモンの口真似のつもりなのか、グレゴリーは通常時より幾分高い声で言った。ワイングラスを置くと、グレゴリーは自分の顔だけをソロモンのそれに変えて、
「ああ、カール!」
 何故お前はカールなのだ!とでも続けそうな声で叫ぶ。

「昨日の電話…ハノイからかけたんですね?いつ、いらっしゃったんですか?」
「四日ほど前だ」
 一瞬にしてグレゴリーは顔を元に戻すと、「多忙な中、はるばるロシアからたった一人の弟のために飛んできてやったのだ!」と恩着せがましく言いながら、くるりと回転した。
「少しぐらいは弟の仕事振りを観察するぐらいの時間があってもいいだろう?…面白いものを見せてもらえて何よりだ」

 グレゴリーはワイングラスを置いた。
「あの青年…カール・フェイオンと言ったか?随分とご執心のようだな、ソロモン」
 口を歪めて笑みを浮かべるグレゴリーに、ソロモンは嫌悪感を剥き出しにして顔を顰めた。
「実に楽しませてもらった。私の目の前を通っても、わが愛しの弟は恋人に夢中で気づきもしない!恋は盲目というが、そうらしいな」
 四日間もこの男にストーキングされていたのかと思うと、ソロモンの背に冷たいものが走りぬけた。
「特にあなたを楽しませるものはないと思いますが」
 ソロモンは、今度は努めて冷静な口調で言った。先程思わず感情を表にだしてしまったが、それではより一層グレゴリーを調子に乗らせてしまう。
「いや、実に楽しい演目だ…。ターゲットに恋情を抱くとは…。あの青年が五番目のシュヴァリエに選ばれるか選ばれないか、不安で仕方がないのだろう?ソロモン。結果がどちらであるにせよ、お前が苦悩するところが見られそうで、私は楽しみで仕方ない」
 くくくっ、という笑い声が、ソロモンの耳にも、頭の中にも響き渡る。
 ソロモンは挑発には乗らず、かろうじて無表情を通した。
「まぁいい…本題といこうか。長兄殿からのプレゼントだ。楽しみをとっておきたかったから、誰が選ばれたかは、私はまだ知らないがね」
 グレゴリーが右手をあげると、その人差指と中指の間に、真新しい茶色の大きな封筒が挟まっていた。
「あの青年は私の好みだ……是非弟として迎えたい」
 ワイングラスを再び片手に持ちながら、グレゴリーはソロモンに封筒を渡す。ソロモンは挑発を無視しながら封筒を受け取って、
「グレゴリー…。この封筒の中身は空でしょう?」
 呆れ返ったように言った。こういう単純な嫌がらせが来るだろうとは思っていた。
「ご明察。本物はこっちだ」

 一体、いつ手にしたのか、グレゴリーの右手には、先程と全く同じタイプの封筒があった。
「欲しいか?ソロモン」
「当たり前です。頂かなければ仕事ができません」
「『仕事』…か。建前上はそういうことになるな」
 言って、グレゴリーは不快極まりない高笑いをあげた。
「しかし、ソロモン。この封筒、受け取ってもお前は開けられないのではないか?開けても書類を取り出す事すらままならないのではないか?なんなら私が読み上げ……」
 グレゴリーがワイングラスを置いた瞬間、ソロモンは床を蹴っていた。グレゴリーの首を捕らえようと、刃化させた右腕を伸ばす。
「遅い…あと数年、戦闘訓練を積んでから私には刃向かうことを考えた方がいい」
 前にいたはずのグレゴリーは、瞬時にソロモンの横に移動し、ソロモンの手首を掴み上げていた。
「!?」
 瞬間、ソロモンの手首が嫌な音を立てて、ありえない方向に曲がる。
「…ぐっ…」
「叫び声をあげなくなっただけ上出来か…」
 グレゴリーは退屈そうに言ってから、ソロモンの手を放した。
「グレゴリー…」
 ソロモンは自分の手首を元の位置に戻しながら、呻き声をあげる。それでもすぐにソロモンが再び封筒を奪い取ろうとすると、グレゴリーは、
「怖い怖い。いつから兄に対してそんなに無礼になった?」
 ソロモンの背後に回って、耳元で囁いた。
「自分で見る勇気などないだろう?だから私が読みあげると言って…」
 グレゴリーは瞬時に後ろに跳んだ。

「危ないな。弟から肘鉄を食らうところだった」
「いい加減にしてください、グレゴリー」 
 瞳の色を危険な赤に変色させるソロモンに、
「仕方ない、この辺にしておいてやるか。このパターンにはもう飽きた…そうそう、『アナスタシア』はしばらく動けない…。彼女が動けるようになったら、また連絡をいれる」
 グレゴリーは余裕の笑みで、封筒を差し出した。

「最初からそうしてください」
 ソロモンは封筒を奪うようにして受け取ると、すぐに封を開けた。
「………」
「やはり、見られないだろう」
 封は開けたものの、中の書類をだせない。
 ソロモンは一度大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐いた。
 僕の本当の望みは……。そして望みが叶わない時は……。

 音が世界から消える。
 ソロモンは書類を取り出し、見た。
 シュヴァリエに選ばれた者の名前と、予備の為に準備しなければいけない人間の名前を確認する。

「グレゴリー。僕が苦悩するところを見たいと言っていましたね」
 ソロモン書類に目を落としたまま言った。
「僕の勝ちです」
 ソロモンは書類をグレゴリーに見せ付ける。二人の人間の名前とその情報が乗っているその書類に、カールの名前はなかった。

「カールは選らばれなかった」 

 ソロモンは書類を封筒の中に戻した。心の中は不思議と落ち着いていて、ソロモンは冷静な声のまま、続ける。

「僕はね、グレゴリー。もし、カールがシュヴァリエ…いえ、実験体として選ばれていたら、彼を、自分の手で殺してあげようと思っていたんですよ…彼を苦しませない為に。ディーヴァと兄さんから逃れられるものなど、この世にいないのですから」
 そうなっていたら、僕が苦悩する様も見られたんでしょうけど。
 数秒後、「実につまらん」と、憤然としてグレゴリーは嵐のように去っていった。

 ソロモンは力が抜けたように、ソファーに倒れこんだ。体が沈みこむ中、静かに天井を見上げる。
 そして、ぽつりと呟いた。
「…最後に…、こんなに嬉し涙を流したのは…いつでしたっけ?」
 答える者は、誰もいなかった。


*    *    *


「ソロモン…?」

 ソロモンの腕の中で、カールが不思議そうに相手の名を呼んだ。
ドアがノックされる音に、カールが自分の部屋のドアを開けてくれたのが数秒前。カールの顔を目にした瞬間の心地よい疲労感と安堵の中で、ソロモンは自然とカールの体を抱き寄せていた。

 カールが、ここにいる。

 ただそれだけで、目を閉じて感じるのは、春の始まりに陽だまりの中にいるような暖かさ。
 ソロモンは頭をカールの右肩に預けた。
 ここは、どこにも不安も恐怖も何もなくて、ただ自分のままでいられる場所。

とくん…とくん…

 カールの体から感じる心臓の鼓動に、一粒になるかならないかぐらいの切ない涙が、ほんの少しだけ視界をぼやかしたが、愛しさに任せてカールの首に頭を摺り寄せれば、すぐにその雫はどこかに消えていった。今はただ、やがてくる別離ではなく、ここにある幸せを感じていたい。

 自分の頭に、背中に、カールの手が添えられるのを感じる。
「もう少しだけ、このままでいさせてください……」
 小さくそう言えば、カールの腕に力が込められた。

『Anh yeu chi em thoi』

心の中でそっと呟いて、ソロモンは瞳を閉じた。



「今日、いいことがあったんです」

 ソロモンはバスローブ姿でシャワールームを出ながら言った。ソロモンがカールにと持ってきたイランイランのヘアオイルの香りがかすか部屋の中を漂っている。
「いいこと…?」
 カールは寝巻き姿で、ベッドに横になりながらレポートのチェックをしていた。ソロモンがシャワールームからでてきたのを見て、レポートを机において、上半身を起き上がらせる。
「はい」
 にっこりと微笑みながら、ソロモンはベッドに腰をおろし、まだ湿っているカールの髪に指を通した。今は、一秒でも長くカールに触れていたい。最悪の未来が回避された今、それだけがソロモンの願いだった。血分けが終わり次第、自分はフランスに引き上げなければならない。ならば、できうる限り、カールの側にいたかった。
 カールなら、人としての生の中で、きっと精一杯に生きてくれる。たとえ、彼の傍らに自分の姿が無くとも。そこに寂しさを感じないと言えば嘘になる。それでも、もたらされた結果は、確かに自分が望んだものだった。
 実験体としての苦痛を強いられることもない人生をカールに。
 有限の中での輝きをカールに。

「何があったんだ?」
 ソロモンは答えず、カールの頭を抱き寄せて額にキスを落とし、悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「教えないつもりなんだろう」
 誤魔化すようなソロモンのキスに、カールは口を尖らせて言った。
「…ええ、でも…」
 ソロモンの右手が、カールの襟元へと落ちる。
「…本当に、いいことだったんです」
 カールのシャツのボタンを、一つ、外す。
「それで発情した?」
「…嫌な言い方しないでください」
 咎めるように言いながらも、ソロモンの声音は柔らかなものだった。
カールがソロモンの顔に手を伸ばす。ソロモンはボタンを外す手を止めた。
「よかったな」
 カールの指先がソロモンの頬を滑っていく。
「…今までで、一番いい顔をしている」
 ソロモンはにっこりと笑った。「幸せ」以外の色が全て逃げ出したような、心の中そのままの笑みだった。

「…くやしい」
 カールは目を細めて言った。
「…くやしい?何故?」
 カールの身体の向こう側に肘をつき、カールの胸の上に上半身を乗せながら、ソロモンは訊いた
「誰が、お前をそんな顔にさせたんだ?」
 カールはソロモンの背中に手を回した。
「…そいつが、羨ましい」
 どこにも嘘のない言葉と瞳が絡み合う。
 ソロモンがまた一つ、カールのボタンを片手で外すと、
「…そういう気分じゃない」
 カールは拗ねるように言った。
「困りましたね…」
 言葉は裏腹に、ソロモン声音は全く困ってなどいないものだった。今引く気は全くない。

「カール、頭を枕に」
「?」
 カールは訝しげな顔をしたが、言われた通りにする。ソロモンは机においてあったタオルをとると、それをカールの目の上に乗せた。
「…とらないでくださいね」

 少しずつ思考が何処かに溶けていく中で、ソロモンは首をかしげて、カールの下唇を甘噛みした。そしてほんの少しの間だけ、啄ばむように口づけあってから、唐突に顔を離す。その動きに、一瞬だけカールの唇が続きを乞うように動いた。ソロモンは笑みを深くしながら、唇を触れるか触れないかぐらいのぎりぎりまで近づけてから、すぐに離す。唇の上にソロモンの吐息を感じていたであろうカールの頭が戸惑ったように揺れた。
 ソロモンは再び口づけながら、歯列を割って舌をカールの口内に差し入れた。だが、ソロモンの舌は、絡み合うことを期待したカールの舌から逃げ回る。

「…っ…」
 焦れたようにカールは目の上のタオルをとった。意地の悪い笑みを目元に浮かべるソロモンを見て、カールはソロモンを力任せに抱きしめた。からかうような動きだったソロモンの舌は、その瞬間から積極的に動き始める。
 何度も何度も角度を変えて口づけを味合いながら、ソロモンは長い夜が始まるのを感じた。


*   *   *


 次の日の朝。西窓のため朝日が入ってこないカールの部屋の中、ソロモンは自宅から持ってきていたコーヒーを(カップ等はいつも二階に置かせてもらっている)飲んでいた。ソロモンは白のスラックスに、上の方のボタンを途中で止める気が失せたかのようにしてダークグレーのシャツを着ていた。カールを眺めていた。
 カールはうつ伏せで眠っていた。顔が完全に髪で隠れている。タオルケットを蹴ったのか、ソロモンが先程シャワールームからでてきた時、カールは惜しげもなく腰の辺りまで素肌を晒していたので、ソロモンはタオルケットを肩のあたりまでかけ直しておいた。

 コーヒーの香りに、カールがもぞもぞと動いてから、首だけ起き上がらせる。ソロモンからは、ぼさぼさの黒髪のカーテンに邪魔されて、カールの表情を見ることができない。カールはしばらく窓の方を見てから、自分の肩に手をやってびくりと体を震わせてから、ゆっくりとソロモンを見た。
 やっと目が合って、ソロモンが口を開く。
「おは……」
「………」
 …ようございます、と続けようとすると、カールはソロモンに背を向けて、頭からタオルケットを被ってしまった。

「…大丈夫ですか?」
 ソロモンが心配そうに聞くと、
「抱かれた経験はないと言ったのに…あれだけやっておいてよく言う…」
 タオルケットの下から、地を這うような呻き声が聞こえてきた。
「…すみません」
「謝るなら最初から手加減しろ…」
 干からびたような痛々しい声に、ソロモンは白湯の入ったポットの中身をカップにいれた。
 カールの喉に刺激を与えないように、ぬるめにしてある。
「カール、ぬるま湯ですけど、飲んだほうがいいですよ」
 カールはタオルケットから顔をだすと、ソロモンに背を向けたまま、腕をソロモンに伸ばして、カップを受け取った。
 そのまま一気に飲み干して、やはり背を向けたまま湯飲みをわたして、またタオルケットを頭から被る。

「…まだ残ってますけど…、飲みます?」
 今度は腕だけがでてきた。
 カップを渡すと腕がタオルケットの中に消えていって、今度はカップの中身を空にしてでてくる。
 ソロモンはそれを片手で受け取って、もう片方でカールの手を握った。

「…放せ」
 タオルケットの下からの威嚇する猛獣のような声に、
「嫌です」
 ソロモンは無謀にも、軽い口調で言った。
「………」
 カールはタオルケットの中から顔を出して、今にも人を殺せそうな形相で、ソロモンを睨みつける。
「…あなたの顔が見たかっただけです、と言ったら怒りますか?」
「…今すぐ絞め殺してやる。首をよこせ」
 呪詛を込めた声に、ソロモンは、
「失礼しました」
 と言ってカールの手を放した。
「…今、何時だ?」

 訊かれて、ソロモンが時刻を告げる。
「今日の授業が午後からでよかった」
 カールはゆっくりと上半身を起き上がらせる。
「…え、休まないんですか?」
「当然だ」
「カール、休みなさい」
 ソロモンがそう断言すると、
「………」
 カールは探るようにソロモンを見てから、
「わかった…その代わり…責任を持って今日の授業のノートをとって来い。課題もだしてこい」
 命令した。
「…わかりました。ご命令、拝受します」
 ソロモンは女王に仕える従者のように言った。
「ところで陛下」
「なんだ藪医者」
「朝のキスを」
 カールはしばらく白けたような目つきでソロモンを見ていたが、
「…しょうがない奴だな」
 苦笑しながら両腕を伸ばした。
 ソロモンはカールの腕の中に吸い寄せられるようにして、ベッドの上に片方の膝を乗せてカールを抱きしめた。
 朝のキス。それは朝という時間に相応しく軽く……なるわけがなかった。
「んんっ…んっ…」
 深くなっていく口付けに、抗議するようなカールのくぐもった声があがるが、ソロモンは構わずにカールに体重をかけながら、続ける。ようやくカールを解放して、最初にソロモンからでた言葉は、
「カール……、我慢できな」
「さっさと準備して大学に行け!!」
 当然却下された。


*   *   *


 ソロモンは大学に行った後、一度自分の館に戻り、そして夕方、堂々とカールの部屋に戻ってきた。
「課題、だしてきましたよ」
「ご苦労」
 カールはソファーで論文用の資料を読みながら、言った。ソロモンに全く視線を向けないカールに、
「…いいもの、持ってきたんですけど」
ソロモンが少しふて腐れたように言う。
「いいもの?」
「これです」
 ソロモンは大きな茶封筒をカールに手渡した。その封筒はだいぶ古いもので、角が毛羽立っていた。
「これは…」
 カールが本を置いてから封筒を開けると、中には十数枚の白黒写真が入っていた。
「フランスの名所の写真です。家にあったものを何枚か」
 カールは目を輝かせながら、何枚もある写真を次々に見る。
「昨夜無理させましたから」
「…これで侘びのつもりか?」
 写真を見ながら訊くカールに、
「そのつもりです」
 ソロモンはカールの隣に座りながら答えた。カールはしばらく写真を見てから、
「ソロモン。もう少しこっちに来い」
「?」
 ソロモンが言われた通りにカールの側によると、ソロモンの頬に触れるだけのキスを落とした。
「釣りだ。もらいすぎはよくない」
 カールは悪戯っぽく笑う。
「…もう少し頂けると嬉しかったりします」
 今度は額にキス。
「もうすこ……」
「釣りだと言っただろう。これ以上はやれん」
 カールはそう断言すると、写真に目を戻した。

 その横顔を見ながらソロモンは思った。
 この瞬間は、遠くない未来の中で、過去になる。
 …でもそれでいいのだ。
 自分がこの地を去るまで、できうる限りカールの側にいて、いい思い出を作れれば、それでいい。もう二度と、仮面を外して笑うことなどないのだろうと絶望していた自分を救ってくれた人の笑顔を、沢山見ておきたかった。

 嵐のち晴れ、のソロモンだったが、…今度はカールがハリケーン状態になるとはこの時まだ知る由もなかった。




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