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黒い泉。闇に囲まれたその場所で、奴がまた、泣いている。
泣き声を聞きながら、私は手を伸ばした。
一人で泣かなくていい、と。
すると黒い泉も、森も、全てが消えて……。
私の目に映ったのは、ソファーで俯き、声をださずに泣いているソロモンの姿だった。
地獄への組曲 8
私は一人、自分の部屋にいた。
家に戻ってきてから、十数分。太陽が沈んでから時間がたつが、明かりもつけずに私はベッドに横たわっていた。最近、奴が部屋にいることに慣れてしまったから、一人でいるとどうも部屋が静かすぎる気がする。
窓の外で浮かんでいる月をぼんやりと眺める。
夜空に浮かぶ月。いくつもの姿を見せる月。その姿のどれもが、月の本当の姿でもあり、偽の姿でもある。そして月は我々に、決して裏の面を見せることはない。我々が重力の枷から外れ、空へと飛び出し、その裏へと回らない限りは、決して、見せることはない……。
私は思わず溜め息をついた。
……ソロモン。そんなに、私が怖いのか?
奴と私の間には、見えない壁があるようだった。触れようと手を伸ばせば、阻まれる。私に近づこうとする素振りを見せながら、いざ私から近づこうとすれば、奴は私を拒む。あの柔らかな微笑を浮かべて。
……正直、初めて泊めた時に奴が何もしてこなかったのには、肩透かしを食らった。暇さえあれば人の耳元で○○なことをいってくるような奴だ。別に期待していたわけではないが、何かしてくるだろうと身構えていたら、奴は悠々とソファーの上で横になりながら、月明かりで本を読んでいた。
思わずベッドの上で固まってソロモンを見ていると、
「眠れないんですか?」
と奴は言った。お前のせいだ!!と怒鳴ってやりたかったが、奴のことだ。ひょっとしたら私からそういう事を言わせるのが、奴の作戦なのかもしれないと思って、何も言わなかった。(「やっぱりカールも…」と嬉しそうに言いながらベッドに潜り込んでくる奴の姿がありありと頭に浮かんだのだ)
それに、初日からいきなり…というのにさすがに遠慮したのかもしれなかった。(相手がソロモンではその可能性は低いとは思ったが)。
しかし、何回泊まりに来ても、ソロモンの態度は変わらなかった。
ソファーで横になっている奴に、「一緒にベッドで寝ないか」と言って以来、同じベッドで二人で眠るようにはなったが、相変わらず何もしてこない。(…さすがに連日ソファーで寝させるのはどうかと思っただけだ。他意はない)
繰り返し言うが、私は別に何かされるのを期待しているわけではない。
ただ、ソロモンの日頃の言動との差異におかしな違和感を覚えているだけだ。
屋外や公共の場にいる時は、奴は積極的にこちらに絡んでくる。止めろと言っているのにふれてくるし、最近は時々「約束」も平気で破る。
だが、いざ二人きりになれば、奴は風に舞う葉のようだった。いくら必死で掴もうとしても、軽やかに身を翻す。掌に落ちてくるのを待っていれば、今度は狙ったように掌の直前に予想外の方向に落ちていく。
今思えば、本当の意味で奴が触れようとしたことなど一度だってなかったのかもしれない。人目につくところでは、私から奴に近づこうとしないことを知っているから、奴は私に近づく。
そして逃げる。私が奴に近づく時。ふれようとする時。求める時。
…奴は、何をそんなに恐れている?
わからない。たが、心当たりが全く無いわけではない。
奴が部屋に来ている時、夜遅くにふと目を覚ますと、奴はいつも起きていて、ソファーに座りながら何かを考えている。一体いつ眠っているんだとも思うが、世の中には二、三時間眠れば大丈夫という奴もいるらしいから、多分、奴はそういう系統の人間なのだろう。奴は項垂れながら、苦悩に満ちたような顔を隠そうともしない。(私が眠っていると思っているから隠す必要もないのだろうが)声を押し殺しながら泣いている日もある。
何かが、奴の心を蝕んでいる。
それが、奴が私に近づかない原因と直結しているかどうかはわからない。
何故一人で泣くのか?それは奴自身に訊いてみない事にはわからないだろう。
ただ、近づけば逃げていく奴に――どうやら私とある一線を越えることを極端に恐れているらしい奴に――そこまでするのが果たしていいことなのか、わからない。追い付けない程遠くに逃げられてしまうかもしれない。余計に奴の苦悩の種を増やすだけの結果に終わるかもしれない。
今は、なるように任せるしかないのだろうか。
普通に接して、奴を待つしか……。
「はぁ……」
今日何度目かの溜息。
ここ数日で、一生分の溜息をついたかもしれない。
「あいつは本当に、名医かもしれないな…」
『深刻な恋煩いですね』
二週間ほど前の奴の言葉が聞こえる。
恋煩い…恋煩い…。なんとも嫌な病名だ。
溜息の回数の記録更新がなされようとした瞬間、月を黒い何かが隠した。
窓のすぐ外で、人間の男の首が逆さまに吊り下がっていた。
長い黒髪が地面に向かって真っ直ぐに垂れていて、時折夜の微風に微かに揺れる。その上(この場合は下と言うべきなのか?)半分と左の目は仮面で隠れている。少しだけ開いた窓の隙間から、仮面の男が絶えず、くくっ、と実に楽しそうに喉の奥で笑うのが聞こえた。
普通、こんな状況に陥れば逃げ出すか、驚いて体が動かないかのどちらかだろう。
が、生憎、この男のこういう登場には、私は慣れっこだった。長いつき合いなのだ。極めて不本意だが。
「楽しそうだな?」
窓を開けないまま、私が声をかけてやると、
「ああ、最高の気分だ。お前を抱きしめて口づけしてやりたいぐらいに」
仮面の男は芝居がかった口調で答えた。よく通る声だ。私の喉が過去を思い出して痛み出すほどに。
「…殺す気か?」
私は笑いながら言った。
「…安心しろ。本当にやろうとは思っていない。やってしまったら互いに破滅だ!」
ああ、考えただけで鳥肌が立つ!と言いながら、仮面の男は身震いした。既に私の全身にも鳥肌が立っていた。
「…それにしても本当に久しぶりだな。死んだのかと思っていた」
確か私が最後にこの男を見たのは、数年前に私が自分の喉を再起不能にした日だ。
「死ぬわけがないだろう。――長い間腐っていたが…。それにそろそろ嫌な黴が生えてもおかしくはなかったが――。私はお前が死ぬまで、文字通りお前と一心同体なのだからな。残念なことに」
「実に残念だ」
厳粛に私が言うと、
「……ああ、心底な。まぁ、冗談はこのあたりにしておこう。さっさと用件を済ませておきたい」
仮面の男は腕を下(上か?とにかく地面のある方向に向かってだ)に向かって思いっきり伸ばし、それから頭の後ろで腕を組んだ。
「…部屋に入ったらどうだ?」
起き上がり、窓に手をやって私が言うと、
「部屋?いつからお前はそんなことを気にするようになった?昔は私が木から吊り下がっていようが、空を飛んでいようが気にしなかっただろう」
仮面の男は挑発するように言った。
「お好きに」
私はやれやれ、と言いながら、腕を組んだ。この男はいつもこうなのだ。
「…私が目覚めていたことには、気づいていたのだろう?」
仮面の男は吊り下がったまま言った。
私は少し考えてから、
「ああ。ソロモンと出会ってから、少し経ったぐらいの時だな?」
仮面の男は頷いた。
「…奴に、言おうとしたんだろう?」
普通に訊けば唐突に聞こえる筈の問いだが、私には彼が何を言っているのかはわかっていた。
「『私は…、お前と会っている時は、本当の自分に戻れる気がするんだ』…ああ、言おうとしたさ、奴とホアンキエム湖に行った時に。そうか、やはり奴と出会ったから、お前は目覚められたんだな?」
「どうかな…?」
仮面の男は私の言葉には答えず、愉快そうに笑うだけだった。どうやら奴も、そのことは認めたくないらしい。
「…しかし何故、今頃わざわざでてきた?」
「ぐだぐだと悩んでいる輩に嫌気がさした」
仮面の男は吐き捨てるように言った。相変わらず自分に正直なところは変わらないようだ。
「私か?奴か?」
私が尋ねると、
「両方だ」
仮面の男は短く答えた。まぁ、そうだろうな、とは思っていた。
「だが今回は、お前に一言言いたくてでてきた。…お前の臆病者さ加減にうんざりする。奴に言いたいことがあるなら言えばいいだろう。いつまで時間を無駄にし続ける気だ?」
「………」
畳み掛けるように言ってくる男の言葉に、私は言い返すことができなかった。
「今、奴のことで立ち止まってどうする?お前には他にやらなければいけないことが山ほどあるはずだ」
「……留学のことか」
確かに、そうなのだ。このところ、紙が夢の中で襲ってくるのではないかと思えるぐらい、留学の書類作成やら、その他手紙やらに時間をとられている。他にもやらなければいけないことは山程ある。
「…生半可な覚悟ではこの時期を耐え抜けないことは重々承知の筈だろう。この上ソロモンのことまで、背負い込む余裕はない。加えて、奴が自分から事情を話そうとしない限りはお前にできることは殆ど無い。もし言いたいことがあるなら言え。言わないならそもそも気にするな。お前は……」
『今、潰れるわけにはいかない』
私と仮面の男は同時に言った。
仮面の男はにぃ、と満足げに口元を歪めながら笑う。
「わかっているじゃないか…これなら長居する必要はないな。今宵はこのあたりで去ることとしよう」
「また、会えるか?」
私は仮面の男に訊いてみた。答えは分かっているのだが。
「私達は一つでないといけない。本来は、こうして分れていていけない。もう会わないことを祈ろう…」
予想通りの答えが返ってきた。
「そうだな…だが、話せてよかった」
「…私もだ。最後に一つだけ、言っておきたいことがある」
仮面の男は真面目な口調で言った。
「…なんだ?」
「忘れるな。…たとえ誰が裏切っても、世界中の人間がお前を見捨てたにしても…。私だけは絶対にお前の味方だ」
「知ってる…。…そうだ、私も一つだけ言いたいことがある」
「?」
「今まで…、ずっと…お前を腐らせてきた。そのことは本当にすまないと思っている」
私は頭を下げた。
「 ? ああ、気にしていたのか…。まぁいいさ。骨身まで腐敗する前に目が覚めたから、問題はない。さぁ、お前は自分の舞台に戻るんだ。奴が待ってる。…『あの場所』も」
『それでは、もう会わないことを祈って…』
互いに同時に言うと、仮面の男は窓の外へとでていった。
私が窓を閉じようとすると、
「ドリアンが食べたい。言い忘れたが」
仮面の男の首がまた、窓の上から現れた。
「まだ安売りの時期じゃない」
「知ってる。言いたかっただけだ…。最近食べてないからな…」
哀愁漂う声でそう言うと、今度こそ仮面の男は完全に姿を消した。
「………」
どんよりとした曇り空が、一気に晴れ渡っていくような心地がした。
仮面の男が立ち去った後。
私は少し勉強してから、散歩にでることにした。
ドアノブに手をやって回し、そして押す。
いつもと変わりない一連の動作で開く筈のそのドアは、ごん、と鈍い音をたてて何かにぶつかった。なんだ?
開いた隙間からなんとか廊下に出ると、何故かソロモンが額を押さえながら蹲っていた。
「…何してる?」
私が訊くと、
「ネズミ捕りにかかっていたネズミを見ていたら、急にドアが開いて…」
ソロモンは痛そうに言った。
確かに、ねずみが一匹ひっかかっている。いや、それより…。
「悪かった。まさかそこにいるとは思わなかったんだ…大丈夫か?」
「…大丈夫ですよ」
ソロモンは立ち上がりながら額にやっていた手をとったが、確かに赤くなってはいなかった。
「冷やさなくても平気か?」
「大丈夫です。これでも結構頑丈ですから…それより、出かけるところだったんですか?」
「少し夜風に……」
私は続けようとして、
「ソロモン。この後、用事は?」
ソロモンに訊いてみた。
『…いつからお前はそんなに臆病者になった?言いたいことがあるなら奴に言えばいいだろう…』
仮面の男の言葉が、頭の中で響いていた。
「え?ないですけど…」
待つ、というのも一つの方法なのだとは思う。
だが……。
「ついてこい」
それは、私の性には合わない。
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泣き声を聞きながら、私は手を伸ばした。
一人で泣かなくていい、と。
すると黒い泉も、森も、全てが消えて……。
私の目に映ったのは、ソファーで俯き、声をださずに泣いているソロモンの姿だった。
地獄への組曲 8
私は一人、自分の部屋にいた。
家に戻ってきてから、十数分。太陽が沈んでから時間がたつが、明かりもつけずに私はベッドに横たわっていた。最近、奴が部屋にいることに慣れてしまったから、一人でいるとどうも部屋が静かすぎる気がする。
窓の外で浮かんでいる月をぼんやりと眺める。
夜空に浮かぶ月。いくつもの姿を見せる月。その姿のどれもが、月の本当の姿でもあり、偽の姿でもある。そして月は我々に、決して裏の面を見せることはない。我々が重力の枷から外れ、空へと飛び出し、その裏へと回らない限りは、決して、見せることはない……。
私は思わず溜め息をついた。
……ソロモン。そんなに、私が怖いのか?
奴と私の間には、見えない壁があるようだった。触れようと手を伸ばせば、阻まれる。私に近づこうとする素振りを見せながら、いざ私から近づこうとすれば、奴は私を拒む。あの柔らかな微笑を浮かべて。
……正直、初めて泊めた時に奴が何もしてこなかったのには、肩透かしを食らった。暇さえあれば人の耳元で○○なことをいってくるような奴だ。別に期待していたわけではないが、何かしてくるだろうと身構えていたら、奴は悠々とソファーの上で横になりながら、月明かりで本を読んでいた。
思わずベッドの上で固まってソロモンを見ていると、
「眠れないんですか?」
と奴は言った。お前のせいだ!!と怒鳴ってやりたかったが、奴のことだ。ひょっとしたら私からそういう事を言わせるのが、奴の作戦なのかもしれないと思って、何も言わなかった。(「やっぱりカールも…」と嬉しそうに言いながらベッドに潜り込んでくる奴の姿がありありと頭に浮かんだのだ)
それに、初日からいきなり…というのにさすがに遠慮したのかもしれなかった。(相手がソロモンではその可能性は低いとは思ったが)。
しかし、何回泊まりに来ても、ソロモンの態度は変わらなかった。
ソファーで横になっている奴に、「一緒にベッドで寝ないか」と言って以来、同じベッドで二人で眠るようにはなったが、相変わらず何もしてこない。(…さすがに連日ソファーで寝させるのはどうかと思っただけだ。他意はない)
繰り返し言うが、私は別に何かされるのを期待しているわけではない。
ただ、ソロモンの日頃の言動との差異におかしな違和感を覚えているだけだ。
屋外や公共の場にいる時は、奴は積極的にこちらに絡んでくる。止めろと言っているのにふれてくるし、最近は時々「約束」も平気で破る。
だが、いざ二人きりになれば、奴は風に舞う葉のようだった。いくら必死で掴もうとしても、軽やかに身を翻す。掌に落ちてくるのを待っていれば、今度は狙ったように掌の直前に予想外の方向に落ちていく。
今思えば、本当の意味で奴が触れようとしたことなど一度だってなかったのかもしれない。人目につくところでは、私から奴に近づこうとしないことを知っているから、奴は私に近づく。
そして逃げる。私が奴に近づく時。ふれようとする時。求める時。
…奴は、何をそんなに恐れている?
わからない。たが、心当たりが全く無いわけではない。
奴が部屋に来ている時、夜遅くにふと目を覚ますと、奴はいつも起きていて、ソファーに座りながら何かを考えている。一体いつ眠っているんだとも思うが、世の中には二、三時間眠れば大丈夫という奴もいるらしいから、多分、奴はそういう系統の人間なのだろう。奴は項垂れながら、苦悩に満ちたような顔を隠そうともしない。(私が眠っていると思っているから隠す必要もないのだろうが)声を押し殺しながら泣いている日もある。
何かが、奴の心を蝕んでいる。
それが、奴が私に近づかない原因と直結しているかどうかはわからない。
何故一人で泣くのか?それは奴自身に訊いてみない事にはわからないだろう。
ただ、近づけば逃げていく奴に――どうやら私とある一線を越えることを極端に恐れているらしい奴に――そこまでするのが果たしていいことなのか、わからない。追い付けない程遠くに逃げられてしまうかもしれない。余計に奴の苦悩の種を増やすだけの結果に終わるかもしれない。
今は、なるように任せるしかないのだろうか。
普通に接して、奴を待つしか……。
「はぁ……」
今日何度目かの溜息。
ここ数日で、一生分の溜息をついたかもしれない。
「あいつは本当に、名医かもしれないな…」
『深刻な恋煩いですね』
二週間ほど前の奴の言葉が聞こえる。
恋煩い…恋煩い…。なんとも嫌な病名だ。
溜息の回数の記録更新がなされようとした瞬間、月を黒い何かが隠した。
窓のすぐ外で、人間の男の首が逆さまに吊り下がっていた。
長い黒髪が地面に向かって真っ直ぐに垂れていて、時折夜の微風に微かに揺れる。その上(この場合は下と言うべきなのか?)半分と左の目は仮面で隠れている。少しだけ開いた窓の隙間から、仮面の男が絶えず、くくっ、と実に楽しそうに喉の奥で笑うのが聞こえた。
普通、こんな状況に陥れば逃げ出すか、驚いて体が動かないかのどちらかだろう。
が、生憎、この男のこういう登場には、私は慣れっこだった。長いつき合いなのだ。極めて不本意だが。
「楽しそうだな?」
窓を開けないまま、私が声をかけてやると、
「ああ、最高の気分だ。お前を抱きしめて口づけしてやりたいぐらいに」
仮面の男は芝居がかった口調で答えた。よく通る声だ。私の喉が過去を思い出して痛み出すほどに。
「…殺す気か?」
私は笑いながら言った。
「…安心しろ。本当にやろうとは思っていない。やってしまったら互いに破滅だ!」
ああ、考えただけで鳥肌が立つ!と言いながら、仮面の男は身震いした。既に私の全身にも鳥肌が立っていた。
「…それにしても本当に久しぶりだな。死んだのかと思っていた」
確か私が最後にこの男を見たのは、数年前に私が自分の喉を再起不能にした日だ。
「死ぬわけがないだろう。――長い間腐っていたが…。それにそろそろ嫌な黴が生えてもおかしくはなかったが――。私はお前が死ぬまで、文字通りお前と一心同体なのだからな。残念なことに」
「実に残念だ」
厳粛に私が言うと、
「……ああ、心底な。まぁ、冗談はこのあたりにしておこう。さっさと用件を済ませておきたい」
仮面の男は腕を下(上か?とにかく地面のある方向に向かってだ)に向かって思いっきり伸ばし、それから頭の後ろで腕を組んだ。
「…部屋に入ったらどうだ?」
起き上がり、窓に手をやって私が言うと、
「部屋?いつからお前はそんなことを気にするようになった?昔は私が木から吊り下がっていようが、空を飛んでいようが気にしなかっただろう」
仮面の男は挑発するように言った。
「お好きに」
私はやれやれ、と言いながら、腕を組んだ。この男はいつもこうなのだ。
「…私が目覚めていたことには、気づいていたのだろう?」
仮面の男は吊り下がったまま言った。
私は少し考えてから、
「ああ。ソロモンと出会ってから、少し経ったぐらいの時だな?」
仮面の男は頷いた。
「…奴に、言おうとしたんだろう?」
普通に訊けば唐突に聞こえる筈の問いだが、私には彼が何を言っているのかはわかっていた。
「『私は…、お前と会っている時は、本当の自分に戻れる気がするんだ』…ああ、言おうとしたさ、奴とホアンキエム湖に行った時に。そうか、やはり奴と出会ったから、お前は目覚められたんだな?」
「どうかな…?」
仮面の男は私の言葉には答えず、愉快そうに笑うだけだった。どうやら奴も、そのことは認めたくないらしい。
「…しかし何故、今頃わざわざでてきた?」
「ぐだぐだと悩んでいる輩に嫌気がさした」
仮面の男は吐き捨てるように言った。相変わらず自分に正直なところは変わらないようだ。
「私か?奴か?」
私が尋ねると、
「両方だ」
仮面の男は短く答えた。まぁ、そうだろうな、とは思っていた。
「だが今回は、お前に一言言いたくてでてきた。…お前の臆病者さ加減にうんざりする。奴に言いたいことがあるなら言えばいいだろう。いつまで時間を無駄にし続ける気だ?」
「………」
畳み掛けるように言ってくる男の言葉に、私は言い返すことができなかった。
「今、奴のことで立ち止まってどうする?お前には他にやらなければいけないことが山ほどあるはずだ」
「……留学のことか」
確かに、そうなのだ。このところ、紙が夢の中で襲ってくるのではないかと思えるぐらい、留学の書類作成やら、その他手紙やらに時間をとられている。他にもやらなければいけないことは山程ある。
「…生半可な覚悟ではこの時期を耐え抜けないことは重々承知の筈だろう。この上ソロモンのことまで、背負い込む余裕はない。加えて、奴が自分から事情を話そうとしない限りはお前にできることは殆ど無い。もし言いたいことがあるなら言え。言わないならそもそも気にするな。お前は……」
『今、潰れるわけにはいかない』
私と仮面の男は同時に言った。
仮面の男はにぃ、と満足げに口元を歪めながら笑う。
「わかっているじゃないか…これなら長居する必要はないな。今宵はこのあたりで去ることとしよう」
「また、会えるか?」
私は仮面の男に訊いてみた。答えは分かっているのだが。
「私達は一つでないといけない。本来は、こうして分れていていけない。もう会わないことを祈ろう…」
予想通りの答えが返ってきた。
「そうだな…だが、話せてよかった」
「…私もだ。最後に一つだけ、言っておきたいことがある」
仮面の男は真面目な口調で言った。
「…なんだ?」
「忘れるな。…たとえ誰が裏切っても、世界中の人間がお前を見捨てたにしても…。私だけは絶対にお前の味方だ」
「知ってる…。…そうだ、私も一つだけ言いたいことがある」
「?」
「今まで…、ずっと…お前を腐らせてきた。そのことは本当にすまないと思っている」
私は頭を下げた。
「 ? ああ、気にしていたのか…。まぁいいさ。骨身まで腐敗する前に目が覚めたから、問題はない。さぁ、お前は自分の舞台に戻るんだ。奴が待ってる。…『あの場所』も」
『それでは、もう会わないことを祈って…』
互いに同時に言うと、仮面の男は窓の外へとでていった。
私が窓を閉じようとすると、
「ドリアンが食べたい。言い忘れたが」
仮面の男の首がまた、窓の上から現れた。
「まだ安売りの時期じゃない」
「知ってる。言いたかっただけだ…。最近食べてないからな…」
哀愁漂う声でそう言うと、今度こそ仮面の男は完全に姿を消した。
「………」
どんよりとした曇り空が、一気に晴れ渡っていくような心地がした。
仮面の男が立ち去った後。
私は少し勉強してから、散歩にでることにした。
ドアノブに手をやって回し、そして押す。
いつもと変わりない一連の動作で開く筈のそのドアは、ごん、と鈍い音をたてて何かにぶつかった。なんだ?
開いた隙間からなんとか廊下に出ると、何故かソロモンが額を押さえながら蹲っていた。
「…何してる?」
私が訊くと、
「ネズミ捕りにかかっていたネズミを見ていたら、急にドアが開いて…」
ソロモンは痛そうに言った。
確かに、ねずみが一匹ひっかかっている。いや、それより…。
「悪かった。まさかそこにいるとは思わなかったんだ…大丈夫か?」
「…大丈夫ですよ」
ソロモンは立ち上がりながら額にやっていた手をとったが、確かに赤くなってはいなかった。
「冷やさなくても平気か?」
「大丈夫です。これでも結構頑丈ですから…それより、出かけるところだったんですか?」
「少し夜風に……」
私は続けようとして、
「ソロモン。この後、用事は?」
ソロモンに訊いてみた。
『…いつからお前はそんなに臆病者になった?言いたいことがあるなら奴に言えばいいだろう…』
仮面の男の言葉が、頭の中で響いていた。
「え?ないですけど…」
待つ、というのも一つの方法なのだとは思う。
だが……。
「ついてこい」
それは、私の性には合わない。
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